時には 母のない子のように
      だまって 海をみつめていたい
      時には 母のない子のように
      ひとりで旅に出てみたい
      だけど心はすぐかわる
      母のない子になったなら
      誰にも愛を話せない

         カルメン・マキ 「時には母のない子のように」
               (寺山修司作詞 田中未知作曲)

   この年(昭和43年)人類が初めて月面に着陸した。日本のGNPが世界で第2位
  となり、アメリカに次ぐ豊かな国になった。

   カルメン・マキが暗く物憂げに歌うこの唄だけではなく、淋しい唄がなぜか流
  行した。
   たとえば、「♪生まれたときが悪いのか、それとも俺が悪いのか・」(昭和ブ
  ルース」)という唄が流行ったかと思えば、「♪ひとりで寝るときにゃよぉ 膝
  小僧が寒むかろ・・」(「ひとり寝の子守唄」)という唄が若者の心に忍び込ん
 だ。

   おそらく、豊かさや繁栄の翳の部分が唄の言葉となって浮かび上がってきたと
  言ってもいいのかもしれない。
   その頃、五木寛之が「演歌」を「艶歌」とか「怨歌」などと呼んでいたのも、
  そのことと無縁ではあるまい。

   ところで、この唄は寺山修司の作詞である。寺山といえば、俳句、短歌、詩そ
  して映画、演劇(当時「天井桟敷」という前衛劇団を主宰していた)に縦横の活躍
  をした人だが、寺山には一種のデマゴーグ的な才能があった。
   「書を捨てよ、街に出よ」、「家出のすすめ」など刺激的な言葉を若者に発信
  しつづけた。私もまた寺山の言葉に酔ったひとりである。

   たとえばこんな言葉である。
       
   「一番不幸なのは捨てられた女ではなく、忘れられた女である」

   「莫迦な奴めが・・一揆で権力を倒せると思っておるのか、権力は倒れは
   せぬ・・ただ交代するだけのことである」

   こうした、ちょっとした言葉の修辞(レトリック)に酔ったのは
   私だけではなかったと思う。

   後日、この「一番不幸なのは・・」は次の言葉に原典があることを知った。
      
   「よるべない女よりもっと哀れなのは 追われた女です。追われた女よりもっ
  と哀れなのは死んだ女です。 死んだ女よりもっと哀れれなのは忘れられた女
  です」(マリーローランサン・堀口大学訳)

   また、寺山の短歌でいちばん人口に膾炙した一首

   「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」

   についても「一本のマッチをすれば湖は霧」(宮澤赤黄男)という俳句との類似
  性あるいは模倣が問われたことがあった。

   寺山は模倣の天才という見方もないわけではないが、私は同じ語彙を使いなが
  らも、オリジナルより陰翳のある作品に引き上げた技術、才能のようなものを評
  価したいと思う。

   多面的な寺山修司ワールドのなかでも、短歌の世界、とりわけ「青春歌集」を
  私はこよなく愛するものである。
   好きな歌を挙げてみる。ここには青春そのものが脈打っており、
   みずみずしい感性に、はっとさせられるのである。

   「森駆けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし」

   「空撃ってきし猟銃を拭きながら夏美にいかに渇きを告げん」

   「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」 

   「煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし」

 
   ★ 1969年(昭和43年)の流行語      
    「あっと驚くタメゴロー」(ハナ肇)
    「エコノミック・アニマル」
    「オー、モーレツ!」「モーレツ」
    「シコシコ」
    「それをいっちゃー、おしまいよ」(渥美清)
    「断絶の時代」
    「チンタラ」
    「ナンセンス」
    「やったぜ、ベイビー」(大橋巨泉)
    「ワルノリ」