あなた知ってる 港ヨコハマ
街の並木に 潮風吹けば
花散る夜を惜しむよに
伊勢佐木あたりに灯りがともる
恋の情けの
ドゥドゥビ ドゥビドゥビ ドゥビドヴァ
灯がともる
青江三奈「伊勢佐木町ブルース」
(作詞・川内康範 、作曲・鈴木康一)
この年(昭和43年)も、世情を騒がせる大きな事件があいついだ。
三億円事件、金嬉老事件、日本初の心臓移植、川端康成のノーベル
文学賞と皆記憶に新しい。また、高層ビルのさきがけ、霞ヶ関ビルが完
成したのもこの年である。
この唄はそんな世情と関係があるのかどうか、女性の色っぽいため息
が話題となった。
お茶の間に「アッフン」というため息が入り込んできて、いささか、戸
惑いを感じたものである。
学園紛争が燃え盛ったのもこの年である。東大医学部において、登録
医師制度に反対した学生の、無期限ストが東大紛争の発端であった。
東大紛争は翌年の安田講堂に立てこもった学生を排除することで終息
に向かう。
だが、学園紛争は東大のみならず燎原の火のように全国的に広がって
いった。学生運動とは無縁であると思われていた日大においても、激し
い全共闘運動が展開されるのである。
東大と日大という、いわば日本を代表する大学で学園紛争が燃えあが
ったという事実は極めて大きな意味があったように思う。
すなわち、学園紛争が一般化され、そうなるのがあたりまえのような
状況が醸成されたと言える。
私はこの年に早大に入るのだが、早大もまたキャンパスにタテ看板が
林立し、「われわれはッ・・・」というアジ演説が怒号のように木霊し
ていた。前年の羽田闘争あたりからであろうか、デモではヘルメットと
ゲバ棒で武装するようになっていた。
この年の国際反戦デー(10.21)には火炎瓶までエスカレートし、新宿
騒乱と呼ばれ、爾後、過激派の活動が世間の耳目を集めるようになるの
である。
ノンポリであろうとなかろうと、過激派のシンパであろうとなかろう
と、私達は確実にこれらの闘争に巻き込まれ、学生運動の洗礼を受ける
こととなる。つまり、口では多くを語らないが、私達の世代の懐かしい
共通体験なのである。たとえば、催涙弾のたまねぎの腐ったような臭い、
猛烈な目の痛さは私達の世代がよく知るところである。。
その催涙弾を知っている私達の世代では、たとえば、猪瀬直樹(1946年
生・信州大)は同大学の全共闘の議長であったという。
糸井重里(48年生・法政大)も長髪にヘルメットがよく似合った。
民主党の仙谷由人(46年生・東大)も東大紛争にかかわったが、挫折、弁
護士に転進する。
また、前内閣官房長官の町村信孝(44年生・東大)について、最近、こん
な文章を読んだので参考まで記しておく。
<警察に全共闘を売り渡した人物は、なにあろう非日共系の経済学部闘
争委員会書記長町村信孝であった>
状況はよくわからないが、たぶん、町村が学校側と手を握り、紛争収束に
動いたというのが事実ではないかと思う。
いずれにしても、40年前のこと、往時茫々である。