【小谷陽子ストーリー①】

 

 

私は、1973年12月生まれ。

生まれも育ちも鳥取県です。

(鳥取は人口が一番少なくて、鳥取砂丘が有名)

 

 

 

3時間に1本しかバスが通らない田舎に

三姉妹の末っ子として生まれました。

 

 

 

幼少期は活発で、

近所に住んでいる同い年の子は

男の子ばかり。

 

 

 

その影響もあり、

男の子と遊ぶことが多く、

トミカやプラレールで遊んだり、

自然の中を駆け巡ってました(笑)

 

 

 

そのおかげで、瞬発力や脚力もつき、

走ったり跳んだりすることが得意。

 

 

小4から中高とバレーボールに命を注ぎ、

アタッカーとして活躍しました。

完全に“スポ根”の世界です。

(スポ根って死語?)

 

 

 

夢は、全日本の選手になる、だったかな!?

 

 

 

 

 

しかし、

度重なるケガに悩まされ、

高校卒業と同時に

大好きだったバレーボールは引退し

フツーの女子に戻りました(笑)

 

 

 

高校卒業後は、

県内にある機械メーカーに、

事務員として就職。

 

 

 

本当は大学に行きたいと

思っていたんだけど、

家の経済状況から大学進学はあきらめ、

就職を選びました。

 

 

 

 

しかし、

はじめは仕事が

覚えることもなかなかできなくて、

いつも上司に注意され、

家に帰って泣くことも・・

 

 

 

 

仕事ができない自分が

本当に嫌で、嫌で、

たまりませんでした。

 

 

 

 

何度もやめようと思ったのですが、

『石の上にも三年』とはよくいったもの

やはり経験を積んでいけば

できるようになるんですよね。

 

 

 

 

やめずにがんばったことで、

経理や税務のスキルを

しっかり身につけられたことは

本当に良かったと心から思っています。

 

 

 

そして、

根気強く、仕事を教えてくれた

上司に感謝しかありません。

 

 

 

 

おかげで、その後も

どんな会社に勤めても

不安なくスタートできました。

 

 

 

 

20代前半は、

仕事にも慣れてきて、

プライベートも楽しく過ごすことができました。

 

 

 

その頃出会った男性と、

25歳で結婚。

 

 

 

 

 

 

幸せも束の間。

子どもをすぐに授かるものの流産。

 

 

 

 

“幸せ”が一気に消え去ったようで、

自分を責めるようなことばかりを

考えるようになっていきました。

 

 

 

 

お嫁に行ったことが

悪かったんだろうか・・とか、

 

 

 

 

関係ないようなことまでが

関係しているように思うんですよね。

 

 

 

 

 

実は、そんなふうに考えてしまうのは、

結婚したことへの罪悪感があったからなのです。

 

 

 

 

私は三姉妹の三女で、

姉がいるにもかかわらず、

姉たちはすでに嫁いでいて、

残る私が「家の跡取り」という

暗黙の了解みたいな感じがあったのでした。

 

 

 

 

それを押し切って結婚を決めたこともあり

祖母と両親には申し訳なく思っていたのです。

 

 

 

その頃の私は、

自分の幸せよりも

家族を困らせないように、

家族を優先して生きてきました。

 

 

 

なので、

いつも人の目を気にしたり、

人と比べることを基準にしていた私は、

いつも劣等感を抱えていました。

 

 

 

 

そして、高卒ということが

自分の中では恥ずかしいことでもあったのです。

 

 

 

学歴コンプレックスもあり、

特別な才能もない私が、

幸せになるためには

人よりも何倍もがんばらないと

いけないといつも思っていました。

 

 

 

 

がんばっても、がんばっても

認められることってないし、

お給料も高卒ということで

低いんです。

 

 

 

そんな現実を

不平等だと思っていたし

私は不幸だと思っていました。

 

 

 

 

流産は本当に

大きなショックだったのですが、

それでも、旦那さんや義理の両親が

優しくしてくれたおかげで、

立ち直ることができ、

また妊娠することができました。

 

 

 

 

でも怖くて・・

また流産したらどうしようって

考えてしまうのです。

 

 

 

 

おまけにつわりもひどいから、

入院をして点滴することもありました。

 

 

 

 

少しずつ妊婦生活にも慣れた頃、

切迫早産になり、またもや入院。

 

 

 

 

そのときに、

お腹の赤ちゃんの異変に

看護師さんが気づき、

緊急手術をすることになったのでした。

 

 

 

 

心の準備もないまま、

緊急で帝王切開になり出産。

それは妊娠8ヶ月のことです。

 

 

 

 

無事、命は助かったものの、

赤ちゃんは別の病院に緊急搬送。

 

 

 

 

私は、赤ちゃんの顔も見ないまま、

不安な日々を病院で過ごし、

出産後のほかのママを見る度に

さらに落ち込んでしまいました。

 

 

 

 

どうして私ばかり、

こんな目に遭うのだろう・・と。

 

 

 

 

 

看護士さんに励まされるけど、

赤ちゃんのことが心配で、

1人になると泣いてばかり。

 

 

 

 

でも、お母さんになったのだから

いつまでも泣いていられないって、

一生懸命、自分に言い聞かせながら

徐々に、前向きな気持ちに変化していきました。

 

 

 

 

赤ちゃんに会えないときは、

毎日、旦那さんが、

赤ちゃんの写真を撮ってきてくれて

様子を教えてくれたり、

母乳を届けてくれたりと

仕事が忙しいなか、

病院を行き来してくれました。

 

 

 

 

そして、赤ちゃんとはじめて対面したのは、

出産した4日後。

 

 

 

はじめて赤ちゃんと対面したときは

あまりの小ささにショックを受け、

小さく産んでしまったことに、

ただただ、謝ることしかできませんでした。

 

 

 

必死に生きてくれている赤ちゃんに、

申し訳ない気持ちがあふれてしまって

また泣いていました。

 

 

 

 

それは、赤ちゃんだけではなく、

旦那さんや義理の両親にも

申し訳なく思っていました。

 

 

 

 

私なんかが、お嫁にきたばかりに

こんな思いをさせてしまって・・

本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったのです。

 

 

 

 

私なんかいなくても良かったんじゃないかな・・

 

 

 

 

そんなふうに思ったことも何度もあります。

 

 

 

 

でも、そんな思いを持ちつつも、

赤ちゃんは育てなくてはなりません。

 

 

 

 

赤ちゃんは生まれてから

約2ヶ月入院だったので、

私は、毎日、会いに病院に通いました。

 

 

 

 

退院後は、一緒にいられることが

とっても嬉しかったのですが、

早産で、低体重児。

 

 

 

気をつけなければならないこともあり、

育児はなかなか難しく、

 

 

しかも、息子に病気があったので、

かなり気も使っていたことや心配、

そして、慣れない育児で

イライラすることも多かったです。

 

 

 

 

 

育休後、仕事復帰も考えていたけれど、

悩みに悩んだ末、育児に専念することを決め退職。

 

 

 

 

 

育児と専業主婦の生活が始まるのですが、

さらに、姑との関係にも悩むように・・

 

 

 



続きは・・・
小谷陽子Story②