毎年7月15日、朝8時より鎌倉建長寺三門前で梶原施餓鬼会が行われる。
令和8年7月15日(水)私は梶原施餓鬼会に参加するため、JR北鎌倉駅に7時30分到着した。
この日はどんよりとした曇り空、最高気温34℃になる予想で、普段は緑が多く涼しいイメージの北鎌倉駅も風もなく蒸し暑かった。いつもは鮮やかな緑の山も今日は薄墨で煙ったように黒ずんでいた。
ちょうど鎌倉学園の生徒たちの登校時間で、狭い歩道を生徒たちの歩調に合わせ歩くと10分で建長寺に到着した。
建長寺は鎌倉五山第一位の格式ある臨済宗の本山である。建長5年、執権の北条時頼が中国、宋の高僧蘭渓道隆を招いて開山した。
建長寺総門
総門を潜って三門に向かう。建長寺では山門ではなく三門と書く。三解脱門の意味で全ての煩悩を滅却すると言われる。この三門前で施餓鬼会が行われる。
施餓鬼会とは、あの世で苦しんでいる飢餓霊に飲食を施す行事で、一般にはお盆の時期に行われる。
梶原施餓会の看板
梶原施餓鬼会がどうして行われるようになったのかというと、建長寺が創建された翌年のこと、蘭渓道隆が施餓鬼会が終わり帰ろうとしたところ、1人の騎馬武者が駆けつけて、施餓鬼会が終わったことを知り、残念そうに帰ろうとした。
蘭渓道隆が呼び止めて、再び施餓鬼会を行ってやると、武者は喜んで、私は梶原景時の亡霊であると言って感謝して帰って行った。
それ以来、建長寺では、一般の施餓鬼会の後で、梶原施餓鬼がずっと行われている。
三門前の広場には笹だけ4本を柱にして高い施餓鬼棚が作られていた。中央には万界万霊の位牌が、その前には山盛りのご飯、野菜、干物が供わっていた。
三門前には10本の長い白い施餓鬼幡に7如来の尊名が墨書されて、風に靡いていた。3つの位牌と、浄水を入れた桶が用意されている。開始時間を待つ僧侶が集まり始めていた。黒い衣の上に黄色の袈裟が映える。出頭沓という変わった履き物を履いている。
施餓鬼会の開始を待つ僧侶たち
三門右側には一般参列者用の長椅子が用意されて、すでに、寒川梶原会の方々が到着されていた。
梶原終焉の地、瀬名梶原会の方々は法被を着て幟を持参された。お手製の甲冑を付けた鎌倉もののふ隊の隊将、鎌倉智士氏、私の故郷、犬山市の梶原会からも興禅寺の閑栖様、会長、副会長の姿が見える。
一般の方を合わせると60名ほどになった。
瀬名梶原会の幟
開始5分前、国宝の梵鐘の鐘が厳かに響く。
三門内でお経が始まる。管長を中央に、塔頭や末寺の僧侶20人以上が向き合って一斉に読経が始まる。
暫くすると、三門前の庇をぐるぐる周りながらお経を唱え出した。
35分ほどで、一般の施餓鬼会は終わり、管長は退席となった。
続いて、梶原施餓鬼会の始まりである。また僧侶は向き合うような位置に戻り、歌を歌っているような明るいリズムのお経を唱え始めた。サンスクリット語の梵語心経だそうで10分ほど続いた。
全て、施餓鬼会は終わり、一般参加の焼香が始まる。
私も並んで焼香を待つ。
焼香が終わり、興禅寺の閑栖様は鎌倉もののふ隊の隊将と歓談。
暫くの間、犬山の梶原会の方々と歓談した後、9時30分、建長寺を後にした。 (了)










