小牧長久手古戦場を訪ねた翌日の5月17日(日)、私は妹夫婦に羽黒の興禅寺まで送ってもらった。興禅寺で行われる梶原忌供養に参列するためである。
興禅寺は梶原景時開基と伝わる、臨済宗妙心寺派の寺である。昭和62年、梶原景時公顕彰会が発足し、毎年5月の第3日曜日、梶原忌供養が行われる。私は初めての参加だ。
興禅寺の庫裏(国の登録文化財)
興禅寺の本堂
私との縁は、梶原一族が鎌倉を追放され、清水の清見ヶ関で、一族が討死した後、景時の二男景高の子、豊丸が名馬磨墨に乗り、乳母お隅の方や、7名の家臣と共に羽黒に落ち延びた。7家臣の1人が私の先祖である。
梶原一族羽黒移住の案内板
羽黒移住のレリーフ
興禅寺の隣には羽黒城跡がある。
羽黒城址の案内板
羽黒城址 愛知県の碑。
羽黒城跡は、もとは前方後円墳、全長80メートルであった。
豊丸が元服して、景親と名乗り墳丘や壕を利用して居館を構え羽黒城を築城した。在地領主として羽黒を治めていたが、景時から数えて17代目、景義は織田信長に3000石で仕えたが、本能寺の変で嫡子共々殉死して、梶原家は断然した。
その後起こった小牧長久手の戦いの前哨戦、羽黒八幡林の戦いで羽黒城も興禅寺も町も全て焼け落ちた。興禅寺は犬山城主小笠原吉次により、再興されたが、羽黒城は竹藪に覆われて跡形もなくなっているが、土塁の跡などは見られた。
数年前より、羽黒コミュニティ推進協議会の方々が竹藪を整備されて、趣きある竹林に変貌した。
羽黒城跡、竹林内にある梶原屋敷跡五輪塔。
10時から受付が始まった。40周年記念の分厚い記念誌や「風の峠」という山内一豊と妻千代を描いた小説をいただいた。一豊の母親が梶原の出身であるという。
横歴の景時オタクのSさんも来ておられ、庫裏へ入って控えの間で、美味しい草餅と抹茶をいただいた。
40周年記念誌
本堂に案内された。中央の黒い小さな像が景時らしい。
殿鐘が鳴り響き、法要の始まりを告げる。
3人の僧侶、閑栖様、住職、副住職が入場しお経が始まる。
来賓は1名ごとに名前を呼ばれて焼香した。私は初めての参加で緊張した。
お経の後、三味線や民謡が奉納された。
梶原家の墓地へ。2つ並んだ宝篋印塔が景時夫妻。
あとは梶原一族の墓。
次に、名馬磨墨と乳母隅の方の供養塔に行き焼香する。小竹に覆われていたが周りは「するすみ公園」となっており、馬🐎の形の遊具が置かれている。
磨墨塚の案内板
磨墨とお隅の方の墓。
本堂に戻り、懇親会が開かれた。来賓挨拶には犬山市長初め議員の方、寒川梶原顕彰会副会長、名馬磨墨の産地の郡上市明宝気良の方、コミュニティ推進協議会会長など様々である。
歓談となり、食べきれなほど大きく豪華な盛り合わせ弁当が出た。私は羽黒の顕彰会の方々、興禅寺の閑栖様、梶原家子孫の方と歓談したり、懐かしい同級生とも会うことができ、楽しいひとときを過ごすことができた。
懇親会風景
お開きとなり、建長寺で7月15日に開催される、梶原施餓鬼会、来年の5月の第3日曜日の梶原忌供養の参加を約して散会となった。
弟に迎えに来てもらい、実家で歓談した後、夕方、江南駅まで送ってもらい、名古屋から新幹線で9時に自宅に着いた。
(了)














