令和8年3月22日(日)横浜歴史研究会の春の歴史散歩「深川に江戸下町の文化を訪ねて」の下見に参加した。参加したのは私を含め男女7名、集合場所の都営地下鉄、森下駅7番出口に、12時30分に集合した。

駅付近には参加予定人員40名ほどが集まれる適当な場所が見つからない、歩いて5分の最初の訪問地、深川神明宮を集合場所とした。


深川神明宮は深川の地を初めて開いた深川八郎右衛門が創建した神社で、八郎右衛門は慶長元年、摂津国深川村から一族郎党を引き連れて、湿地の干拓、小名木川を開発、物流、警備も任された。


続いて芭蕉記念館に

芭蕉は延宝8年(1680)江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に俳諧活動を展開し、多くの作品を残している。

門人から贈られたバショウの株が生い茂ったことから、芭蕉を俳号とした。

芭蕉没後は武家屋敷内に保存されていたが、明治になり消失した。大正6年の高潮の後、「芭蕉遺愛の石の🪨🐸が出土した。江東区はこの地に芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年芭蕉記念館を開館した。

常設展示室ではパネルなどにより解りやすく展示され、作品はもとより、芭蕉はどんな顔😃だったか、また、旅した経路など興味深かった。


記念館の裏にある小さな庭園の築山の上に造られた、芭蕉庵を模した芭蕉堂


庭園から外に出たが、防潮堤が高く隅田川が見えない。通路に階段を見つけ進むと隅田川に沿った道に出た。川風が心地よい、シャープで斬新なデザインの清洲橋が見えた。


小名木川五本松と芭蕉の句碑

「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年

(1693)50歳の秋🍂五本松の辺りに舟を浮かべて

「川上とこの川下や月の友」の一句を詠んだ。

この辺りは月見🌕の名所となっていた。


展望庭園の芭蕉翁像

隅田川と小名木川を望むことができた。ここで遅い昼食🥪のパンを食べた。


芭蕉稲荷神社⛩️

先ほどの解説、高潮の後、芭蕉遺愛の石の蛙🐸が出た場所。清澄通りを横切り霊巌寺に向かう。


霊巌寺山門

霊巌寺は寛永元年(1624)霊巌上人が隅田川河口西側を埋めたて寺を創建したことに由来する。

明暦の大火の後、幕府の都市計画により、ここ深川に移転した。


江戸六地蔵の五番目の地蔵像

深川の永代寺の六番目の地蔵菩薩は明治の廃仏毀釈により取り壊された。霊巌寺の地蔵は五番目で、享保2年(1717)に造立された。像高は273センチ、かつては鍍金が施され、所々に金箔が残る。


松平定信の墓、宝篋印塔

霊巌寺は松平家と縁の深い浄土宗の寺院で、白河藩の江戸における祈願所、菩提寺の一つであった。周辺の地名、白川は定信に由来する。


紀伊國屋文左衛門の碑、墓はこの後の成等院にあるが、今回は訪れない。材木豪商となった。


深川江戸資料館に到着。深川の街並みを実物大で再現されており、深川ゆかりの人物、深川の歴史について紹介している。

元横綱大鵬の顕彰の目的で、大鵬の当時の取り組みがテレビで放映されていた。遥か昔の勇姿に思いめぐらせた。

江戸の長屋の佇まい


次に清澄通りを渡り反対側にある清澄庭園

清澄庭園は一説には紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝わる。享保年間には久世大和守の下屋敷となり庭園が造られた。明治11年に岩崎弥太郎がこの一帯を取得して造園、隅田川の水💦を引いた大泉水はじめ全国から取り寄せた名石を配して回遊式林泉庭園として完成した。関東大震災後、岩崎家から東京市に寄付され、昭和7年清澄庭園として開園された。


次に清澄通りを通り、門前仲町を目指す長い道のり、途中に採茶庵跡に芭蕉の像があった。

芭蕉の門人、杉山杉風の別荘で、芭蕉は深川の芭蕉庵を人に譲り、ここから「おくのほそ道」の旅の出発した。 


深川不動堂

成田山新勝寺の東京別院で元禄16年(1703)創建された。成田山信仰の江戸での拠点として、不動明王を本尊に祀り「深川のお不動様」と親しまれてきた。本堂には迫力ある不動明王や天井画が素晴らしかった。


富岡八幡宮

源氏の氏神である八幡大神を主祭神とし、徳川将軍家の保護もあり、江戸最大の八幡宮。相撲との関わりも深く、境内には横綱力士碑や大関力士碑がある。日本最大級の黄金神輿は例大祭、深川八幡祭で担がれ、勇壮な水掛け祭として、知られる。


横綱力士碑


全て周り終えるとちょうど5時となった。

門前仲町駅近くの居酒屋で打ち合わせ、当日、4月25日(土)天気☀️が良いことを願って解散した。(了)