和歌山市歴史マップ 有本 若宮八幡宮界隈 | ユーミーマン奮闘記

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今回の歴史ブログは

和歌山市有本若宮八幡宮周辺の散策です。

 

 

若宮八幡宮は有本地蔵の辻交差点から北東の位置。

現在の紀の川中学の北側にあります。

この付近の古い地名は栗林といい。小字名は出来島。

中世の頃についた地名だそうです。

江戸時代以前はしっかりとした紀の川の堤防がなく、

川は有本付近で網の目のように流れていたのでしょう。

これは四ヶ郷・新在家付近の小字名の地図ですが、見るといたるところに島が付く地名が見られます。

 

有本若宮八幡宮は応神天皇、仁徳天皇、神功皇后を御祭神とし、

弓矢の神、武勇の神として武家に尊敬を崇めました。

社伝によると、この有本若宮八幡宮の祭神は、もと鎌倉の鶴岡八幡宮の御神体だったそうですが、室町時代の永享十一年(1439)に関東管領上杉氏と足利軍の戦い(永享の乱)がおこり鶴岡八幡宮が焼失。 そのとき社僧が御神体を背負い鎌倉を脱出し、紀州雑賀の前島(現在の和歌山市宇治)に逃れました。

そこに祠を建て安置しましたが、天正13年秀吉紀州攻めの折、

宇治前島付近は戦火に焼かれ、幸い御神体は無事だったようで、江戸時代初期、徳川頼宣が紀州入城した際に有本栗林の地に社殿を造営し遷宮しました。

 

この有本栗林の地は、お城から見ると、北東に当たることから

和歌山城の表鬼門 厄除けの守護神としたと言われています。

 

紀伊国名所図会 仁井田好古選

 

これは江戸時代の若宮八幡宮周辺の絵です。見ると鳥居の前に広い馬場があります。  江戸時代には秋になると流鏑馬(やぶさめ)が奉納されていたようです。

流鏑馬とは疾走する馬上から的にかぶら矢を当てる競技で、その歴史は古く896年宇多天皇の時代に始められ、鎌倉時代には武士の嗜みの一つとまでなり、江戸時代末まで各地で盛んに行われていました。

しかし明治以降衰退し、現在では競技が危険との理由から葵祭りなどのわずかな所でしか行われていません。

和歌山の若宮八幡宮も戦後すぐの頃は

馬場の跡だけ残っていたようです。

 

 

江戸期の絵と同じ角度から見た現在の若宮八幡宮です。左の道が

かつて参勤交代の道だった大和街道(国道24号線)で広いグランドが紀ノ川中学校です。馬場は赤いラインで示された位置にありました。

 

若宮八幡宮 紀ノ川中学所蔵

 

この写真は昭和28年ごろのものですが、鳥居の前に広い馬場の跡が確認されます。向こうに見える堤防は紀ノ川の若宮堤。

 

近くに住む古老の方に聞くと、馬場は有本川付近から若宮堤。(プラザ平安が建っている堤防)まで続き広かったそうです。

その頃馬場はもう使われなくなっていましたが、道の両側には美しい松並木があって、その少し奥に柴垣のようなものが道に沿って続いており、冬になると農家の方がその柴垣に大根を干し、なんとも風情のある牧歌的な景色が広がっていたと語ってくれました。

使われなくなった馬場は子供たちの良き遊び場となり、農家の作業場にもなっていたのでしょう。写真の中央に農夫たちが作業している姿が写っています。

 

 

若宮八幡宮 紀ノ川中学所蔵

これは戦後まもない頃の若宮八幡宮です。

写真右には蔵のようなものが写っていますが、地元の方に聞くと造り酒屋だそうで、この周辺を流れる有本川は紀の川の旧河道であるためか、質の良い紀の川の伏流水を利用して酒造りを行っていたのでしょう。

 

いつの間にかその造り酒屋は消え、松並木が消え、広い馬場は学校や住宅地に変わりました。

これが現在の若宮八幡宮馬場跡の様子です。道は4分の1ほどになり住宅に覆われてしまいました。

モノクロ写真と同じ位置から撮影した鳥居正面です。鳥居の後ろにあった松はなくなり、造り酒屋は老人施設に変わりました。

 

では若宮八幡宮の境内を散策したいと思います。

入るとすぐに右手に菩提樹の木が現れます。

神社なのに菩提樹?

菩提樹は釈迦がその下で悟りを得たことから仏教に関係する場所にあるのが普通ですが、日本は明治維新になるまでの1000年間

神仏習合といって神とともに仏を祭る習慣があり、この若宮八幡宮には古い時代明王寺という別当寺(神社を管理するお寺)があったことからその時代の名残りといわれています。

有本若宮八幡宮の御神体は、鶴岡八幡宮から社僧が背負って紀州まで運んだとありますが、その事実からも古い時代、神社を管理する別当寺があるのが普通で、僧侶が宮司よりも権力があった時代がありました。

戸籍制度が始まる以前の時代には寺の檀家帖などが戸籍の代わりになっており、住民を管理したことから寺のほうが権勢は強く、寺がいつくかの神社を管理した例もあったそうです。

 

県指定天然記念物 菩提樹

 

菩提樹は熱帯に自生する木、釈迦が悟りを得た菩提樹とは少し種類が違うとの事ですが、幹周り2.5m 高さ10mの巨木で地上から5mのところで5本に別れています。

和歌山県ではとてもめずらしく昭和44年に県指定天然記念物に指定されました。

 

菩提樹がある庭から少し進むと安産祈願の日吉山王神社があります。

日吉神社は江戸時代には八幡宮から少し小字南島にある常念寺の東にあったもの、明治維新の神仏分離令の頃、寺の横にあった神社は若宮八幡宮境内へと移されました。

有本村に住む古老の方によると、社殿の引越しは夜中。解体せずに村の人たちが建物ごと担ぎあげ静かに八幡宮境内まで運んだと伝わっています。

建物を壊さずにそのまま人力で運ぶなど今では考えれらませんが

若宮までの道は狭くそうする他なかったのでしょう。

当時の村人たちは大変だったと思います。

 

もとの日吉神社があったとされる場所からは安産祈願のために奉納した瓦で焼いた猿の人形が出土したとの事。

 

 

この神社の本殿脇には江戸時代に造られた子を抱いた猿の石造があります。

左側

 

右側

 

 

江戸時代には田中町にある瓦職人が内職として安産祈願用の瓦猿を焼いていたそうです。日吉神社に安産祈願に訪れる人が神社から瓦猿を1本仮り受け、無事出産すると田中町の瓦屋で瓦猿を購入し

2本にして神社に返す習慣があったようで、現在でも瓦猿を奉納する人があると言います。

瓦猿

 

 

 

 

日吉山王神社を過ぎると正面が本殿。これは4月の春祭の時の写真です。

本殿は木造銅板葺で立派なもの春祭には獅子舞が奉納されます。

 

 

流鏑馬はなくなりましたが、春祭には八幡宮と地元の方が中心となって、四ヶ郷小学校・紀ノ川中学校が協力し獅子舞を立ち上げ、毎年本殿前で披露するようになりました。

獅子舞は難易度の高い獅子舞を行う木之本八幡宮の人たちに習ったそうです。

 

若宮八幡宮の獅子舞は予想を覆し、とても見応えするもので、

青年や子供たちが懸命に舞う姿に感動しました。

 

獅子舞は本殿前で奉納した後、昔ながらの方法で若宮周辺の町を練り歩き厄払いの角付を行います。

神社と地域の人たちによって昔の有本の姿が守られているといっていいでしょう。

 

 

 

 

 

またこの有本若宮八幡宮には国の重要文化財の刀が社宝としてあります。有本村では地域の自慢となっています。

(写真はイメージです)

1721年徳川吉宗が紀州東照宮100年頼宣没後50年を記念して奉納した備州長船秀光が社宝としてあります。この刀は1386年に作られたもの。

文化財としての価値が高く、国の重傷文化財に指定されました。

残念ながら、現在は東京国立博物館に大切に保管されていて神社では見ることができません。2004年社殿建て替えの際に一時里帰りし

地域住民に公開したそうです。地元の古老の方はそのとき自治会の役をしていて、刀が来たとき専用のガードマンが3人警護についてきたのには驚いたと話していました。残念ながら刀を抜いて見せてはくれませんでしたが、ガラスの箱に入った刀の鞘の飾りは素晴らしくとても感動したそうです。

 

 

 

地蔵の辻から東側の車で通りすぎると何もないただの住宅地が広がる地域ですが、有本栗林周辺は一歩中に入ると遠い過去の時代を想わせる風景が今でも残っていることを知りました。

 

神社からすぐ近くの町並みも昔の姿を留めていて、村の常夜灯である金毘羅宮の石灯籠が今も常念寺北の三叉路に残っています。

石の常夜灯は村の境などに普通にあったものですが通手段が車に変わると邪魔になるからと多くは撤去され姿を消しました。

 

琴平の石灯籠の残る有本南島は町の周囲に川があって北端には紀州結城氏(有本氏)のお城といわれている有本城があります。

(紀伊国続風土記)といっても今は城郭もなく住宅になっていますが城の西を流れる有本川と北側の溝に最近まで石垣が残っていたそうです。

 

有本南島はその名のとおり、もとは網の目のように流れる紀ノ川の中州に築かれた集落で、周囲の川岸には青石の石垣が見られ昔の姿を留めています。(有本城については後に詳しく掲載したいと思います)

 

 

 

有本若宮八幡宮・南島の集落散策は紀伊中ノ島駅下車。きのくに信用金庫中之島支店東の点滅信号から直進すると南島の集落。琴平の石灯籠で左へ行くと若宮八幡宮に着きます。

 

 

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