翻訳会社から医学関係の仕事をもらい始めたとき、あまり何もよくわかっていない事務の人が、私にある分野の翻訳を打診してきたことがある。それを横で聞いていた管理部長が、「ああ、それはまだムリですよ」と言って止めた。

 それから私に、「この分野はね、きちゃなあーい日本語にせなあかんのです。そのきちゃなーい日本語に慣れないと、仕事をするのはムリです」と説明してくれた。


 そのきちゃなあーい日本語にしなければならない分野というのが特許翻訳であった。


 当時はまだ「特許請求の範囲」という言い方をしていた。


 特許請求の範囲1 上司とOLとの不倫を描いた小説において、該上司の年齢が35歳以上45歳未満であり、且つ該OLの年齢が25歳以上30歳未満であることを特徴とする前記小説。


 てな具合である。もちろん、こんな独創性も何もないものが特許になるわけはないのだが、実際の明細書も似たりよったりで、子どもたちが「発明」ということばから思い浮かべるものとはまるでかけ離れ、重箱の隅をつつくような内容に終始するものがほとんどである。


 以前、医学分野の翻訳はノーベル賞とつながっているが、特許分野はつながっていないと書いた。ノーベル賞は基本的に「科学」に対して与えられるもので、「技術」に対して与えられるものではない。だから、
純然たる「技術」しか問題にしない特許翻訳をしていては、仕事のうえで科学的知見の最前線に触れることはできないのである。


 もうひとつ、特許翻訳の世界が閉じられた世界で特殊な日本語、独特の日本語の世界を構築してそれで終わりなのか、特許翻訳の日本語が日本語全体、日本語の将来にどのように寄与し、どのような影響を与え、日本語の将来にどのように参加していくことができるのか。特許翻訳だから、「きちゃなーい」日本語でも仕方がない。でも、そうれはふつうの日本語とは全く無縁の世界ということですんでしまうのか。


 私の医学翻訳講座の受講生に特許翻訳者がいる。(といっても何人もいるのだが)その一人がこんなことを言っている。


 「私」が医学翻訳の世界で文体の規範を確立しようと試みた。そのことで、医学の日本語も、漢語が多く、一見無味乾燥であるように思えたが、文体をしぼりこんでいけば、それはそれで美しい日本語であり、医学の翻訳をするなかで、日本語の美を追及できることがわかった。自分も特許の分野でそれをやりたいが、如何せん、自分にはその能力がない。


 このことばは、特許の分野でもそれなりに日本語の美を追求する可能性が残されていることを意味するものである。ほんのわずかの別解の余地も残さない論理的な文章。その究極はやはり「美」の世界であると思う。


 ただ、翻訳者らが能率と、収入だけしか頭にないようなら、その美は永久に実現することはない。

 



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