どうもこんばんは、リンイリドです。
悟りシリーズ第3弾?、です。
いろんな経験をすると、ある出来事を、何の判断基準もなく、単なる現象として捉えるようになります。
悟りの境地と言われるやつです。
でもこれって、結構いろんな時にそうなってる気がするんです。
例えば、雨の日に出掛けるとして、「雨」と思うだけなら悟ってるし、雨はやだ、と思うなら悟ってないわけです。
何かに対する裁き、批判、比較を行ってるなら、それはまだその物事に対する考え方が悟りに至っていない、ということになるかと思います。
雨ならまだ比較的悟りやすいかもしれませんが、例えば怒る人、とかどうでしょうか?
手短な例で恐縮ですが、車を運転してて前の車がとろいからクラクションを鳴らす人を見たら、(心の中で)批判したくなりませんでしょうか?
私の父はそんな人なので、私は理由もわからず怒られることがよくありました。
理由がわからないので、私は、自分の存在自体が悪いものなのだ、と思うようになりました。
そして大人になって私も、焦っていたのもあって前の車遅い、とイライラする体験をしました。
自分も同じ立場になって初めてわかることがあります。
父は、ただ何らかの理由でイライラしていたのでしょう。それで、その場にいた私は巻き添えを食って怒られたけど、それは別に私が悪くて怒られたわけではないんだと、腑に落ちました。
急ぎたい時に前に遅い車がいてただイライラした、それと同じようなことが起こったのです。
それを、私は自分が悪いから怒られたのだと勘違いしたため、自分で自分を悪いものとしてきました。
ここまでわかればもう答えは目の前にあります。
自分の存在の価値を自分で決めれるなら、私は、自分の存在は素晴らしい、という考え方が好きです。
この世に生まれてきたただ1人の私は、今も昔も変わらず、何ができても何ができなくても、存在自体がただただ素晴らしいと言えるのです。
そして、これを読んでるあなたも、身の回りにいる全ての人も、私の視界に入る人はみな唯一、みな素晴らしいと思うのです。
やってることの好き嫌いはあっても、この存在愛は根底にあるものです。
あなたも私も、『わけ』なんかなくただただ素晴らしいのです。