「書は読むものではない、観るものだ」 書の観方 皆川雅舟より と 東風随処起芳華 | ブルーの「書自由也」ブログ

「書は読むものではない、観るものだ」 書の観方 皆川雅舟より と 東風随処起芳華

書の観方  皆川雅舟著 墨雅 H22.12月号より

「あなたは小鳥のさえずる声を聞いて楽しいですか」小鳥
 「それは楽しいですね」
青ぃ鳥 「では小鳥の言葉がわかるのですか」
    「いいえ、わかりません」
「言葉がわからなくても楽しいですか」
 「それは楽しいですね」
「ではわれわれの絵も同じことですよ。何が書いてあるか考えるよりも、どう感じるかということです。何も説明することはありません。何かを感じて下さればよいのです」

展覧会を観に行って、ある抽象画が何を書いているかわからないので、折よくいらっしゃった先生に、「この絵は何をお画きになったのかさっぱりわからないので、説明して下さい」
とお聞きしたら、冒頭のような言葉がはね返ってきた。なるほど言われるとおりであるが、一応理屈はわかっても、やはり私には実際の所あまり感動がわかなかった。
しかし、具象的な絵といっても、あまりにリアルでカラー写真のような絵には感動がわかないし、何かをつきとめようとしているものでなければ物たりないことは、私にとっても納得できる。ある画家は、物の質感を出すのに苦労しているとおっしゃるし、浮世絵のように単純な線をもって表現しようとするものもあるので、みなそれぞれの目的をもって美を究明しようとしているようである。したがって、観るものもその線に添って観なければ、審美眼を養うことはできないのではないだろうか。
ある新聞の投書欄を見たら、「最近盛んに書道展が開かれているが、行って見ても読めないのでさっぱりおもしろくない」というようなことが書いてあった。「書は読むものではない、観るものだ」といってもやはり書をやっていない人には納得がいかないことであろう。
しかし、読むのが目的であるとすれば、何も面倒くさい技巧をこらして表現に苦労をしていることはあるまい。活字で印刷された本を読んで、詩や文を鑑賞すればこと足りるのであって、書にはまた書としての生命と目的があるはずである。
先日も日展を観に行ってきたが、大体書道展を見に行って、最初から忠実に読んでいたら、相当書に明るい人であっても、一日かかって何点観られることであろうか。少字数のものならいざ知らず、多字数のものについては、一般の人たちに読めというほうが無理であって、書の観方を知っている人なら、まず読む前にざっと一瞥(べつ)するはずである。
 読もうとする意識、それよりも読めなくてはわからないという意識が先に立っては、書の美が後手に回って、全体の調和という書の美感が見失われるからである。あくまでも全体の調和をまず感じ、更に細部にわたり分析し、最後に気にいったら読んでみる、という順序になるのではないだろうか。
 これは風景を見る場合と同じであって、まず直感的に、「いい景色だなあ」と感じ、そじてさらに、その風景を作っている要素は何であろうかと究明して行くことになる。最初から読もうと試みるのは、風景を見るのにその逆を行くようなものである。文字を読もうとしないで美を感じるようになる。それが本当の書の鑑賞ではないだろうか……。
私は書を観るとき、努めて文字を読まないことにしている。文字を読むことに神経をへらすだけ、美を感じる神経が消耗するからである。そして、気に入った作品があったらじっくりと読む。始めから終りまで目で線を追って行く。そしてそのリズムを感じとって行く。それは読むという意識よりも、旋律をたどって行くといった方が適切かもしれない。
しかし、結果的には読むことになるのだが、言葉のわからない小鳥のさえずりを聞いて美しいと感じると同じように、文字が読める読めないはすでに問題外となるのである。
文字が読めなくてよいというのではさらさらないが、読めないからというので書を敬遠したり、読むことにのみ腐心して書の要素を忘れたりしていては、ほんとうの書のよさはいつまでたってもわからないのではないだろうか。それにしても表意文字である漢字は、やはり詩文が美しい方がよいことは論をまたない。
「読めないから書を観てもつまらない」とおっしゃる大方のご意見も、また真を衝(つ)いているのであろうか……。 〔「書と人生」より〕

すばらしい表現ですネ ナイス good 

  まだ未完成です
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中村弘道(1887~1967) 黄檗宗万福寺54代 塔頭万寿院
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