古代文字の発見から110年しか経過していない | ブルーの「書自由也」ブログ

古代文字の発見から110年しか経過していない

「書画美術~墨の革命」 監修春名好重 から下記の文章を紹介

 1899年に、殷の都の跡 から、多数の甲骨片、墨書された陶片等が発掘された事により古代文字の存在が明らかになった。亀甲や動物の骨等に、線刻された文字である甲骨文を始め、銅器に刻まれた絵文字の様な金文が、今日、古代文字とされるものである。これらは、漢字の元となったものであり、事物の形を表す、形象、表意文字である。今日に至る書の、不断の伝承、発展を考える時に、この「意味のある形」を持つ文字の存在は絶対不可欠である。
 紀元前八~三世紀の春秋戦国時代には、政権が各地に分立し、文字の形が乱れ混じり、文字数も書体数も増えた。石鼓文と言われる石に刻まれた文字が成立したのは、この頃と推察されている。その遺物に刻まれていた書体を大篆と呼ぶ。甲骨、金属、石、それらに刻まれた文字は、古代の文字の代表と言えよう。

 1930年代に湖南省で発見された文書は帛(ハク、布)に書かれており、また、同し遺跡からは後に、竹の細長い片に墨書した「竹簡」が見つかっている。実際に筆と墨で岩かれた書写資料として歴史的なものである。
秦の始皇帝は、天下を統一すると共に、書体の統一も図った。その事により、それ以前の文字「大篆」に対して、「小篆」と言われる文字が生み出され、当時、各地に盛んに建設された碑には多くの文が刻まれた。

 漢代には、文書作成の実用面から、書体の簡素化が必要であった為か、隷書が発明され、一般に用いられる様になった。しかし重厚、荘重を求められる様な場合においては篆書で書かれていた。やがて、隷書の中で徐々に単純化されていったものがあり、草書が現れた。多く使われる文字を書く時に一層の簡略化が必要であったからだろうか。この時代から後になると、上の字画から下の字画に続ける連綿体が用いられる様になっていくのである。隷書からは行書も生まれた。その上、今日の楷書も作られ、いわゆる蒙、隷、草、行、楷の漢字の五体が、漢の時代に形成された事となる。また、現在出土している資料、木簡、竹簡に墨街された公文書や、紙に書かれた写経、石碑等から、漢代の内には筆、墨、紙が全て用いられるようになっていた事が分かる。特に紙の発明が、書に与えた影響は非常に大きい。 以下略