武家屋敷について



まず屋敷という言葉から。
屋敷とは、本来の意味は家が建っている一区切りの土地と家屋を含めた名称であるが土地が広く、立派な造りの家のことを指し示すことが一般的で邸宅ともいいます。古民家においては武家の邸宅を武家屋敷、庄屋の邸宅を庄屋屋敷という。町家は武家屋敷に対比される場合が多く、町家においては屋敷という言葉はあまり使われません。

大名屋敷(だいみょうやしき)は、大名が仕える主人の屋敷や城の付近や内側に構えられた屋敷のことで、大名が居住する屋敷は上屋敷(かみやしき)と呼ばれ、郊外に構えた控えの別邸などは下屋敷(しもやしき)といいます。

江戸屋敷(えどやしき)は、江戸城近辺に幕府が土地を与えて構えさせた大名屋敷のこと。

旗本屋敷(はたもとやしき)は、江戸幕府に仕える直参旗本の屋敷であり、幕府所有のため役職の変更等で頻繁に屋敷替えがなされたいわばお侍さん専用の賃貸物件です。

陣屋(じんや)は3万石以下の城を持たない大名の屋敷をいいます。

庄屋屋敷は戦国時代までは武士がそれぞれの領地で平時は農業に従事しており、この時代の侍屋敷は東日本では名手屋敷(めいしゅやしき)、西日本では庄屋屋敷あるいは代官屋敷と呼ばれました。

近世兵農分離が行われ城下町に侍屋敷が集められ城郭の防衛のため三の丸などに計画的に侍町が造られるようになりました。城に近いほうが身分が高く、遠いほど身分が低くなっている。城下町の侍屋敷は領主から与えられる社宅であり。地位が変われば屋敷換えがなされた。

武家屋敷の原形は公家の住まい「公家屋敷」の寝殿造が原型とされ、武家が台頭する鎌倉時代から始まり、武家造(ぶけづくり)とも言われ、寝殿造を簡略化し武家の生活様式に合わせ御家人の集う施設や防衛のための施設を持つのが特徴となっています。武家造は現在では一室町時代から近世にかけて成立した書院造(しょいんづくり)として説明されます。

寝殿造りとは、平安時代の帰属の住宅様式で、寝殿あるいは正殿と呼ばれる建物を中心に南面に庭が設けられ、庭に遣水の池が造られ太鼓橋が掛けられる。東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属建物があり、渡殿(わたどの)で寝殿と繋がれ、更に東西の対屋から渡殿を南に出し、釣殿(つりどの)が設けられた。

武家屋敷はまた武家の中でも身分が低い中級下級の武士が住んだ家は侍屋敷(さむらいやしき)と呼ばれる。武家屋敷と侍屋敷は本来異なるが、現在はこの侍屋敷を武家屋敷と呼ぶ場合が多い。さらに身分の低い武士には含まれていない足軽(あしがる)の住む足軽屋敷と呼ばれる長屋形式の住宅もあります。