呉(ご)と越(えつ)が雌雄を争って戦いを繰り返していた春秋のころ、
三代の呉王に仕えた名臣に伍子胥(ごししょ)という人物がいる。
子胥は楚(そ)の生まれだが、父と兄とは讒言によって楚の平王に
殺されたため、命からがら呉に亡命してきた。

それだけに楚王に対する恨みと報復の念は強く、常日頃、呉王を
焚きつけては楚を討つように勧めてきた。仕えて二代目の闔廬
(こうりょ)の代になると、子胥の勧めを容れ、大挙して楚へ攻め
こんだ。呉軍の先頭には、もちろん勇み立つ子胥の姿があった。
呉軍は連戦連勝、楚都の郢(えい)に突入した。

子胥が、かつて父や兄とともに住んだ勝手知った都である。復讐
の念に燃える彼は、直ちに昭王(平王はすでに亡く、子の昭王の
代になっていた)を探し求めたが、王は脱出していて捕えることが
出来なかった。そこで父と兄の仇である平王の墓を暴(あば)いて、
王の屍に三百回も鞭を加え(死屍に鞭打つ)てこれを辱(はずか
し)めた


由来、中国では、墓を暴くのは非常な悪逆非道とされていたの
だから、子胥の恨みと憎しみのほどが判ろう。

だが、「死屍に鞭打っ」た報いは、後日彼自身にはね返ってきた。
第三代の呉王夫差(ふさ)に疎(うと)んじられて死を賜ったうえ、
その死体は葬られることなく、皮袋に入れられて長江に投ぜら
れた。子胥の死体もまた辱められたわけである。

(史記)

「死屍に鞭打つ」とは、死んだ人や辞職した人の非をあばき、
その言行を非難する心ない行為をいう。