巻第二十八 第九 「禅林寺の上座助泥(じょでい)、破子(わりご)を欠きし語」


 今は昔、禅林寺の僧正と申す人おはしけり。

 名をば深禅とぞ申しける。これは九條殿(藤原師輔)の御子なり。

 極めてやむごとなかりける行人(ぎやうにん)なり。

 其の弟子に徳大寺の賢尋僧都と云ふ人ありけり。


 其の人未だ若くして、東寺の入寺(にふじ:真言宗の寺での僧の階級)

 になりて拝堂しけるに、大破子(おほわりご)の多くいりければ、

 師の僧正、破子(わりご:仕切りのある弁当箱)三十荷(か)ばかり

 調へて遣らむと思ひ給ひけるに、禅林寺の上座にて助泥(じょでい)

 と云ふ僧ありけり。


 僧正、其の助泥を召して、「しかじかの料に破子三十荷なむいるべきを、

 人々に云ひて催(もよほ)せ。」と宣(のたま)ひければ、

 助泥、十五人を書き立てて、各一荷を宛て催さしむ。


 僧正、「今十五荷の破子は誰に宛てむとするぞ。」と宣ひければ、

 助泥が申さく、「助泥が候ふこそは破子候ふよ。

 皆も仕(つかまつ)るべけれども、催せと候へば半ばをば催して、

 今半ばをば助泥が仕らむずるなり。」と。


 僧正、これを聞きて、

 「いと嬉しき事なり。然(しか)らばとく調へて奉(たてまつ)れ。」と宣ひつ。

 助泥、「さらば、さばかりの事せぬ貧窮やはある。あないとほし。」

 と云ひて立ちていぬ。


 其の日になりて、人々に催したる十五荷の破子皆持て来ぬ。

 助泥が破子未だ見えず。僧正、怪しく助泥が破子の遅きかなと思ひける程に、

 助泥、袴のくくりを上げて扇を開きつかひて、したり顔にて出で来たり。


 僧正、これを見給ひて、「破子の主、此処に来にたり。

 いみじくしたり顔にても来るかな。」と宣ひけるに、

 助泥、御前に参りて頸(くび)を持立てて候ふ。

 僧正、「いかにぞ。」と問ひ給へば、

 助泥、「其の事に候ふ。破子五つえ借り得候はぬなり。」と、したり顔に申す。


 僧正、「さて。」と宣へば、声を少し低(ひき)やかになして、

 「今五つは入物(いれもの)の候はぬなり。」と申す。

 僧正、「さて今五つは。」と問ひ給へば、助泥、音をいみじくひそかにわななかして、

 「それはかきたえて忘れ候ひにけり。」と申せば、


 僧正、「物に狂ふ奴かな。催さましかば四五十荷も出で来なまし。

 此奴(こやつ)はいかに思ひてかかる事をば欠きつるぞと問はむ。」とて、

 「召せ。」とののしり給ひけれども、跡を暗くして逃げていにけり。


 此の助泥は、物をかしく云ふ者にてなむありける。

 これによりて、「助泥が破子。」と云ふことは云ふなりけり。

 これ、をこの事なりとなむ語り伝へたるとや。


「助泥が破子」ということわざができたくらいの話のようです。