幕末から明治にかけて活躍した天才発明家“からくり儀右衛門”こと田中久重。独創的なからくり人形で一躍有名になり、照明器具や機械(からくり)時計など、日常を便利にする画期的な製品を次々に開発。ついには蒸気機関や電信機の国産化にも成功し、日本の近代化に大きく貢献した。幕末の発明王・田中久重は、なぜイノベーションを次々と実現できたのか?人生を楽しみ切ったその生涯に、技術立国実現のヒントを探る、日本のいままで得意だと思ってきた品質・機能がもはや競争力にならなくなった時代、いま求められるのは、消費者の価値観を深く追求すること。そのために必要な技術とはなにか? 日本にあって他国にはない良さとはなにか? 日本を代表する工学者が、これからの日本の産業の方向性を考える渾身の論考!
久重少年は、その後もからくり人形の製作に没頭。20代になる頃には「弓曳童子」や「童子盃台」を製作した。そして自らが製作したからくり人形を引き連れ、大阪や京都を中心に興行を行っていたといわれている。そして30代になる頃までには、すでに久重はからくり人形の製作で名声を得ていたものの、36 歳のときに現在の大阪市に移住。「燭台」や「灯取り」の製作に乗り出し、同年に携帯ろうそく立てである「懐中燭台」やオランダから渡来した空気銃技術を応用した機械式行灯である「無尽灯」を発明した、それには詳しい取扱説明書及び清掃方法が明記され購入した人への思いやりが伺えられる。それまで、からくり人形という人々の娯楽に通じる作品の製作に注力していた久重だったが、人形製作で培った技術力を応用。工芸から人々の生活の質向上に資する発明品の開発を楽しみながら人生をシフトしたのかも知れない。
しかし、彼の人生の転機はその先にあった。それは、かの有名な大塩平八郎の乱(1837年)だった。群衆が豪商や米問屋を襲った結果、自宅と財産を失うことに。結果、彼は住まいを京都に移し新たな発明品の開発に没頭した。
中でも彼の製作したもので評価されているのは「万年時計(万年自鳴鐘)」であろう。蘭学を学ぶことで、当時最先端の技術と出会い、開発・製作に乗り出した。また、同時に天文暦学の勉強も進め、学んだ知識を生かして小型プラネタリウムの開発・製作にも注力した。江戸時代の一刻は夏場と冬場が違いを下図の様な歯車を組入万年時計に仕上げる方法が有名である。
例えば日の出から日没までの時間を6で割りそれを一刻とした(江戸時代の時間制度は「不定時法」と呼ばれ、1日(日の出から日没の昼と、日没〜日の出の夜を一刻と定めた)但し夏時間の一刻と冬時間の一刻は随分違った様ですが、万年時計はその時刻をある程度正確に刻む時計であった。この様な事を知れば田中久重は金銭的にはあまり関心無く、遊び心がある人物に思え、当時蒸気船の製作に参加した頃は随分薄給で士分として雇われた様ですが田中久重個人としては研究出来ない大変興味ある蒸気船の開発は魅力的であったであろう。
久重は1881年(明治14年)、82歳でその生涯を終えた。田中製造所は久重の養子である田中大吉改め2代目久重が継ぎ、事業を電気工業に絞って、エレクトロニクス産業の基礎を築くことになる。当初は順調に発展したが、徐々に苦境に陥り、1893年(明治26年)には、「芝浦製作所」と改名した。この頃、電気機械分野に参入して重電メーカーとしての歩みが始まった。1904年(明治37年)に日露戦争が始まると好景気で好調が続き、それを機に、同年7月1日、「株式会社芝浦製作所」が誕生した。1909年(明治42年)には海外の先進技術を導入するためにアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社と提携し、以後、重電メーカーとして大いなる飛躍を遂げていった。
JR久留米駅前には、久重が制作した「太鼓時計」をモチーフにしたからくり時計が設置されている。定時になると時計盤が回転し、儀右衛門人形が登場するJR久留米駅を訪れると、真っ先に目に飛び込んでくるこの大きな「からくり太鼓時計」。なんでも、とても面白い歴史と仕組みを持っているのだとか。
国産初期の白熱電球は一方、芝浦製作所に先駆けて、1905年(明治38年)にGE社と提携した会社が、東芝のもう一人の創業者、藤岡市助(いちすけ)が興した東京電気株式会社である。市助は、1884年(明治17年)、工部大学校(現在の東京大学工学部)の教授時代に、国の使節としてアメリカの電気産業を視察し、その時エジソンと会見している。エジソンは市助に、「どんなに電気が豊富でも、電気器具を輸入しているようでは国は滅びる。まず電気器具の製造から手がけなさい」とアドバイスした。創業当時の白熱舎感銘を受けた市助は日本の電気産業の発展に力を尽くすことを決意し、教職を辞したあと、1890年(明治23年)、白熱電球を製造する合資会社「白熱舎」を設立、1899年(明治32年)、社名を「東京電気」に変更した。業績は良くなかったが、前述したように1905年にGE社と提携し、大会社へと発展していった。
昭和に入り、1931年の満州事変、1937年の日華事変を契機に軍需景気が促進され、経済は空前の活況を呈していた。この頃、東京電気の社長だった山口喜三郎の頭には、重電の芝浦製作所と軽電の東京電気を合併し、日本のGE社ともいうべき一大総合電機メーカーを実現しようとする構想があった。かくして1939年7月1日、久重が初めて銀座・煉瓦街に工場を構えた日と同じ日に、総合電機メーカーの東京芝浦電気株式会社が誕生。その後、1984年に、社名は現在と同じ株式会社東芝に変更されている。この様な遍歴を見れば随分歴史ある会社だと思う、確かに日本の会社歴史は古い会社は多い様です。
GE社の影響か照明器具の頃のガラス技術の影響か?不明でもあるが東芝の真空管は均一が取れた安定した性能を取得した真空管も数多く、今も真空管販売市場では高額で取引されています。
この様な事もあり例えば趣味の世界も似た様な思いを巡らす事もある様に思う、筆者の好きな音楽の世界も多種多様である、音楽に関する事を調べ又音の謎も音以外の文字で知る、目で知る事も多く、色々な方面から歴史的な事柄も含め探求する事は実に楽しくこれぞ「道落」と言うのかも知れない。
筆者が重宝するブックシェルフ型のFyne AudioF500シリーズですが非常にバランス良く、特に音質はタンノイに似て実に指向性が高い。ゆったりとして聴けるスピーカーです、現在オーディオマニアは経済的に余裕さえあれば誰でも最高のパーツを揃えることができる。とにかく歴史ある銘機の数々も程度の良いものも在庫が揃い、恐らく、何れにしてもアンプ等の機器もサブのシステムは当然考え、また演奏するタイプによっても機器を選ぶ事ができるであろう。しかし日によって機嫌のわるい鳴り方をすることがあるのを、ある程度マニアになれば常識的にもう知っている事実である。うまく鳴らぬ日があるとアンプを別のに替えてみたら、スピーカーをあれに取替えたら、などと思いサブで気に入ったものを購入してしまう。此れはもう一種の病気でもあろう、勿論筆者等は僅かな年金生活者でもあり金欠病は当然の如くで、左舞部屋で古い機種を後生大事に扱いながら音楽を楽しんでいるが、音楽を知ると昔聴いた音を今も繰り返し聴き納得している事に気づくのである。
確かにオーディオ機器も数々あれど、一番肝心な事は音楽ソースつまりソフトの収集である、作曲家、演奏家と自分に合った演奏を探す事も大切な事で幾ら良い装置を揃えてもソフトが無ければ何もならない、当時FM放送が実験的に放送されその影響も強かった事は事実であるその為FMアンテナを立てた記憶があるその後2トラ38のオープンデッキ購入に至る。特に注目したのはNHK放送のライブ配信は楽しみであった、音質も優れレコードも不要の様に感じた頃であった。
1960年代当時はレーコード制作はテープレコーダーのマザーテープからレコードを作った時代でダイレクトドライブでのレコードはまだ先のの事であった。モノーラルからステレオ時代に移行した時代、今から50年以上前に発売されたレコードメーカー、直輸入盤として有名はドイツ・グラモフォン社内に創立された、歴史的古典音楽(古楽)と音楽史研究に特化した専門アルフーフ、レコード・レーベルです。中世からバロックまでの演奏で高い評価を受け、オリジナル楽器演奏の普及において中心的な役割を果たしてきました。この頃一番感動した事はオルトフォンGEの針でレーコードを聴き思わず重い低音と煌めきある高音に聴き入った事は昨日の事の様に思いだすのである。
1947年に設立され、1948年にヴァルヒャによるバッハの録音でスタート。音楽史に沿った体系的なレコーディングを目的としています。ヴェンツィンガー、リヒター(『マタイ受難曲』など)、ピノック、ガーディナー、ゲーベル、ミンコフスキらが重要な録音を残しています。筆者はヴェンツィンガ指揮のアルバムは未だ大切に保管する。
当時は音質も優れた、テレフンケン(Telefunken)の「ダス・アルテ・ヴェルク(Das Alte Werk、「古き作品」の意)」は、1958年に設立されたドイツの歴史的演奏・古楽専門の非常に有名なレーベル・シリーズです。1958年にテレフンケン・レコード(後のTeldec)が創設した古楽部門で、オリジナル楽器や歴史的奏法による演奏を精力的にレコーディングした最初期のレーベルです。ニコラウス・アーノンクールはコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンと共に、J.S.バッハのカンタータ全曲録音(レオンハルトとの共同)や、モンテヴェルディのオペラ再構築など、歴史的記念碑となる録音を数多く制作しました。ニコラウス・アーノンクール演奏のJ.S.バッハ:ガンバ・ソナタを知ったのもこの頃である。
但し当時はソフトもレコード盤が簡単に入手できたが給与も少なく直輸入盤は高額で当時は月に一〜二枚ほどの購入が限度でした。
前回紹介したラルフ・カークパトリック(Ralph Kirkpatrick)によるJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』(第1巻・第2巻)は、チェンバロを用いた歴史的な名盤として知られています。1950年代後半から60年代にドイツ・グラモフォン(DGG)のアルヒーフ・レーベル等で録音され、モダンな解釈と古楽器の技術を融合させた、現代チェンバロ演奏の礎を築いた貴重な録音です。この演奏は今聴くも音質も良く大変楽しめるアルバムでもある、筆者が聴いて思うはラルフ・カークパトリックの師でもあるランドフスカの音色に日いる様に思う、カークパトリックという存在は今では少しずつ忘却の彼方に消えようとしているように見えます。今年は彼の生誕100周年なのですが、おそらく何の動きもないと思われます、残念ですが・・・。
もちろん、「ドメニコ・スカルラッティ」を著し、その作品群に「カークパトリック番号」を付した研究者としての「顔」は永遠に消えることはないでしょう。
しかし、演奏家としてのカークパトリックは少しずつ忘れ去られつつあるように見えます。50年代の後半にまとめて録音された一連のバッハ演奏を聴いてみると、そのどれもが魅力的で高い水準を維持しています。それでも、そのような演奏家としての業績は低くおとしめられたままのように見えます。
理由は簡単、それは彼が時代の制約から、今日ではいたって評判の悪い「モダン・チェンバロ」を使わざるを得なかったからです。そして、そう言う一事だけをもってして、聞くに値しない時代遅れの演奏と決めつけてしまう人のいることには驚かされます。
確かに、ピリオド楽器を使った昨今の演奏とくべてみれば、彼の演奏するバッハの響きはいいささか逞しすぎるのかもしれません。そして、その響きはいわゆる古楽器による演奏からバッハに入った若い人々にはずいぶん違和感を感じさせるのかもしれません。しかし、歴史というものは決して「阿呆の画廊」ではありません。
彼が生まれてからの100年を概観できる「今」から眺めてみれば、カークパトリックという人はチェンバロ演奏の結節点にいた人だったことが容易に理解できます。彼のすぐ前には古色蒼然たるヴィクトリア朝風のチェンバロ演奏が未だに生き残っていて、すぐ後ろには、完璧に復元されたピリオド楽器を使って演奏する若手が控えているのです。名前は「チェンバロ」という同じ言葉で括ることができても、その実態は別種の生き物かと思えるほどに違いのあるこの2つの存在は、カークパトリックという結節点を持つことでかろうじて接続されているのです。その意味では、一度はしっかり聞いておいて損はない演奏家だと思います。
ラルフ・カークパトリック(Ralph Kirkpatrick)によるJ.S.バッハの『ゴルトベルク変奏曲』は、チェンバロを用いた歴史的演奏の金字塔です。1959年録音(44分程度)などが有名で、楽曲の構造を精密に分析した、アーティキュレーション(音の区切り方)の明確さと知的な解釈が特徴であり、グレン・グールドのピアノ演奏とは対照的なチェンバロの響きを堪能できる名盤です。
カークパトリックはチェンバロ音楽の研究者としても著名であり、緻密に構成された楽曲構造を重視した演奏を展開しています。感情に流されず、楽曲本来の姿を冷静に描き出すスタイルが特徴です。
各声部が対等平等に絡み合う対位法的な構造が明確に表現されています。アーティキュレーション(音の区切り方)がはっきりしており、知的な快感を与える演奏と評されています。
2段鍵盤のチェンバロを使用し、その音色のバリエーションを駆使して対比を強調しています。グレン・グールドのピアノ演奏に比べ、音の立ち上がりが速く、パラパラとした鮮明な響きが特徴です。
1950年代後半の録音として、当時の歴史的演奏(ピリオド楽器演奏)の到達点を示しました。現代の軽快な演奏と比べると少し重厚に感じられる場合もありますが、その明晰な解釈は今なお名盤として名を連ねています。
グレン・グールドのドラマチックなピアノ演奏とは全く異なる、バッハの真髄に迫るチェンバロの響きを堪能できる演奏です。
ワンダ・ランドフスカ(Wanda Landowska)とラルフ・カークパトリック(Ralph Kirkpatrick)は、20世紀のチェンバロ復興を支えた先駆者と、その次世代の演奏家という関係にあり、師弟関係にあったものの、最終的には袂を分かった複雑な関係でした。カークパトリックは1931年から32年にかけてパリでランドフスカに師事しましたが、彼女の演劇的で過剰な演出を嫌い、後に独自の、より学術的で硬質な演奏スタイルを確立しました。現在中津川先生のワンダ・ランドフスカの古典演奏会めぐる思案と軌跡のPDF資料を見つけ164Pをコピーし冊子にして読むが奥が深いので読むスピードが遅く時間をかけるつもりである、二度目の録音時ゴールドベルク変奏曲BWV988当時はナチスとの迫害と重なり精神的も乱れた時期でもありその様な状況下でありながらの演奏は見事でもあり当時RCA社の録音メンバーの熱意も凄いの一言に尽きる。
ハーヴァード大学卒業後の1931年、カークパトリックはパリに渡り、チェンバロの復興者であったランドフスカに師事しました。
環境への嫌悪: カークパトリックはランドフスカのパリ(サン=ルー=レ=フォレ)の学校の雰囲気を好まず、彼女の絶対的な指導方針にも否定的でした。音楽的な葛藤: 彼はランドフスカの演奏解釈、特に過剰なレジストレーション(音色変化)やドラマチックな表現に不満を抱いていました。1932年7月、関係は最終的に終了しました。カークパトリックはその後、ベルリンで別の指導者(エタ・ハリヒ=シュナイダーら)の下へ向かいました。
ランドフスカ(プレイエル): プレイエル社製の巨大なモダン・チェンバロを使い、ロマン派的な大音量と多彩な音色変化を特徴としました。カークパトリック(歴史的アプローチ): ランドフスカの「演出」とは異なり、より厳格で、歴史的なチェンバロの機構に基づいた、明確な構造を強調するスタイルを追求しました。
ランドフスカはカークパトリックを「私の生徒は友人であるべき」と、彼との関係が崩壊した後は彼を弟子として認めない姿勢を見せました。継承と反発: カークパトリックは「ランドフスカの弟子」の一人(孫弟子的な立場)としてキャリアをスタートしましたが、彼女のスタイルを直接継承するのではなく、むしろ彼女のスタイルへの「反発」を通じて、独自のチェンバロ解釈を築き上げました。二人ともチェンバロの復興とバッハ演奏において歴史的な功績を残しましたが、アプローチは対照的でした。 要するに、ラルフ・カークパトリックはランドフスカからチェンバロの技術と姿勢を学んだものの、彼女の「芸術的独裁」やスタイルとは異なる道を歩んだ、複雑な関係でした。
最新の演奏者マハン・エスファハニ(チェンバロ)ブルース・リウ(ピアノ)二人共こうしたバロック音楽の場合、ブルース・リウはチェンバロをかなり意識するそうだが、現代のピアノのよさを生かしたいと考えた。
「チェンバロ奏者で歴史に名を残すワンダ・ランドフスカとラルフ・カークパトリックが大好きで、昔から録音を聴いています。チェンバロは強弱表現が難しく、右手と左手を微妙にずらすなど独特の奏法が存在する。現代のピアノはより表現が豊かになり、とても自由です。僕はそれを存分に生かすようにして演奏しています」
Goldberg Variations, BWV 988
Ralph Kirkpatrick (チェンバロ)
Aria
1.Variatio 1. a 1 Clav.
2.Variatio 2. a 1 Clav.
3.Variatio 3. Canone all'Unisuono a 1 Clav.
4.Variatio 4. a 1 Clav.
5.Variatio 5. a 1 o vero 2 Clav.
6.Variatio 6. Canone alla Seconda. a 1 Clav.
7.Variatio 7. a 1 o vero 2 Clav.
8.Variatio 8. a 2 Clav.
9.Variatio 9. Canone alla Terza. a 1 Clav.
10.» Variatio 10. Fughetta. a 1 Clav.
11.Variatio 11. a 2 Clav.
12.Variatio 12. Canone alla Quarta. a 1 Clav.
13.Variatio 13. a 2 Clav.
14.Variatio 14. a 2 Clav.
15.Variatio 15. Canone alla Quinta. a 1 Clav.
16.Variatio 16. Ouverture. a 1 Clav.
17.Variatio 17. a 2 Clav.
18.Variatio 18. Canone alla Sexta. a 1 Clav.
19.Variatio 19. a 1 Clav.
20.Variatio 20. a 2 Clav.
21.Variatio 21. Canone alla Settima. a 1 Clav.
22.Variatio 22. a 1 Clav.
23.Variatio 23. a 2 Clav.
24.Variatio 24. Canone all'Ottava. a 1 Clav.
25.Variatio 25. a 2 Clav.
26.Variatio 26. a 2 Clav.
27.Variatio 27. Canone alla Nona. a 2 Clav.
28.Variatio 28. a 2 Clav.
29.Variatio 29. a 1 o vero 2 Clav.
30.Variatio 30. Quodlibet. a 1 Clav.
31.Aria da capo
Fantasia and Fugue in C Minor, BWV 906
Ralph Kirkpatrick (チェンバロ)
知の音楽としてのゴールドベルク変奏曲BWV988を楽譜の側からと演奏されたものの側から、それぞれ分析します。
クラヴィーア練習曲集 二つの鍵盤をもつチェンバロのためのアリアと種々の変奏より成る。愛好家の心を慰めるため、ポーランド国王およびザクセン選帝侯の宮廷作曲家、楽長にしてライプツィヒの音楽監督たるヨハン・セバスティアン・バッハにより作曲。ニュルンベルクのバルタザール・シュミットにより出版
ライプツィッヒ時代、1741年又は1742年、バッハの円熟期57才の時の作品です。
ラルフ・カークパトリック版
1934年9月15日 ザルツブルクにて」と記された楽譜は、邦訳されて音楽出版社ゼンオンから出版されています。この楽譜にはカーク・パトリック自身による詳しい解説がつけられているとともに、オリジナルの楽譜だけでなく、それに対応した装飾音の奏法と、2段鍵盤用変奏をピアノで弾くときの奏法について、もう一つの楽譜が掲げられています。特に装飾音については詳しく記されていて専門家でなくても、オリジナルから実際の演奏への道筋をたどることができるのです。私もこの楽譜に出会わなければ、ゴールドベルク変奏曲の分析など思いもよらなかったことでしょう。
その後筆者が夢中で聴く様になった雄弁に研ぎ澄まされ躍動するチェンバロ本来の音楽美を伝えたグスタフ・レオンハルト2度目の「ゴルドベルク」、待ちに待った新規リマスターで世界初Super Audio CDハイブリッド化。
またスピーカーMOドイツ製品のへコーなる製品で特上の辛口の音には驚いたが聴き始めると何処となくバッハのきくには一番のスピーカーの様にも感じた。勿論今もわせれない音である。
20世紀録音再生技術の進化の恩恵を受けた古楽復興の牽引者、第2次大戦後の音楽の潮流の一つとして、バロックからルネサンスへと時代を遡った音楽の、それもそうした音楽が作曲された当時のオリジナル楽器やその複製と当時の演奏様式を使った原典復古主義の演奏が本格的に展開されるようになりました。こうした「古楽復興」の動きを強く後押ししたのが、テープ録音の開始、LPレコードの開発、そしてステレオ時代の到来という20世紀の録音再生技術の急速な進化でした。原音を忠実に記録できることで、オリジナル楽器の繊細微妙な音色の魅力を家庭のシステムで手軽に再現できるようになり、しかも実演では音量が小さく大きな会場での演奏に向かない楽器であっても、マイクで収録することでその音量の小ささが補われるようになったからです。こうしたレコードを介した「古楽復興」の動きは、ドイツ・グラモフォンのアルヒーフ・プロダクションやテレフンケンのダス・アルテ・ヴェルクといった専門レーベルの創設によって一気に加速していくことになった。ブラボー!











