Mental Essence
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図表

図表
308.3 急性ストレス障害のAPA診断基準(DSM-Ⅳ-TR)

A その人は、以下の2つがともに認められる外傷性の出来事に暴露されたことがある。
 (1) 実際にまたは危うく死ぬまたは重傷を負うような出来事を、1度または数度、あるいは自分または他人の身体の保全に迫る危機を、その人が体験し、目撃し、または直面した。
 (2) その人の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである。
B 苦痛な出来事を体験している間、またはその後に、以下の解離性症状の3つ(またはそれ以上)がある。
 (1) 麻痺した、孤立した、または感情反応が無いという主観的感覚
 (2) 自分の周囲に対する注意の減弱(例:“ぼうっとしている”)
 (3) 現実感消失
 (4) 離人症
 (5) 解離性権謀(すなわち、外傷の重要な側面の想起不能)
C 外傷的な出来事は、少なくとも以下の1つの形で再体験され続けている:反復する心像、思考、夢、錯覚、フラッシュバックのエピソード、またはもとの体験を再体験する感覚:または外傷的な出来事を想起させるものに暴露された時の苦痛
D 外傷体験を想起させる刺激(例:思考、感情、会話、活動、場所、人物)の著しい回避
E 強い不安症状または覚醒の亢進(例:睡眠障害、いらだたしさ、集中困難、過度の警戒心、過剰な驚愕反応、運動性不安)
F その障害は臨床上著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。または外傷的な体験を家族に話すことで必要な助けを得たり、人的資源を動員するなど、必要な課題を遂行する能力を傷害している。
G その障害は、最低2日間、最大4週間持続し、外傷的出来事の4週間以内に起こっている。
H 障害は物質(例:薬物乱用、投薬)または一般身体疾患の直接的な生理学的作用によるものではなく、短期精神病性障害ではうまく説明されず、すでに存在していたⅠ軸またはⅡ軸の障害の単なる悪化でもない。
DSM-Ⅳ-TR精神疾患の診断・統計マニュアル改訂版、医学書院、2004から転載

PTSDに関する歴史・対処法

1.PTSDに関する歴史
 現在戦闘行動等に起因するストレス障害はPTSD 及びASDに取りまとめられることが一般的である。しかし、ここに至るまでには様々な概念が提唱されてきた。ここでは現在ストレスコントロールに関して先進国である合衆国の軍におけるストレス障害の歴史を中心に振り返ってみることにする。
合衆国陸軍は植民地軍として始まっている。すでに植民地軍において、士気の保持のためには「部隊の精神」の重要性が認識されていた。家から離れた恵まれない状況下において必要戦線に兵士を安定させ、任務放棄させないための対策がとられている。しかし当時、精神医学や他の精神衛生職の分野は無く、従軍牧師が兵士の精神的および道徳的健康をサポートしていたという。当時の記録によると従軍者の精神障害は今日の精神障害と同じものが多く見られる。アルコール乱用、アルコール依存(酩酊)、ホームシック、慢性状況性抑うつ(ノスタルジア)メランコリーなどである。しかしその中でも特に目を引くのがアルコール関連障害で1828年 陸軍の死者の1/2以上がアルコール関連によるものであるとされている。その結果軍におけるラム酒の配給を廃止との対応までとられている。
古くは1889年にOppenheimが外傷性神経症という用語を提唱している。彼は主として脳細胞の分子レベルの変化が生じる結果として脳の機能障害が発生するとみなしている。また、ほぼ同時期の1895年にStrumpellはこの外傷性神経症は兵士の欲求や逃避願望に基づく心因説を唱えその後の賠償神経症の概念の基盤となった。第1次世界大戦が勃発すると砲弾の炸裂により錯乱または四肢麻痺などの症状を呈する兵士が数多く見られ、当初は爆風による脳損傷と判断され、「砲弾ショック」(shell sock)と呼ばれていた。しかしこれらの症状は戦闘場面の心理的影響であるとの認識が持たれるようになり、第1次世界大戦の後半からは戦争神経症という用語が用いられるようになった。しかし、当時はこのようは心理的障害を呈する兵士は元来素質も低く、臆病者や愛国心の不足する兵士であるとみなされていた。こうした誤解が解け、一般の負傷兵と同等に扱われるようになるまでにはその後長い年月を要している。
 戦闘神経症という概念の普及の結果、第1次世界大戦以後その予防と治療のための理論やプログラムが急速に研究されるようになる。最初の戦争精神衛生部隊は、日露戦争時(1904~1906)のロシアに存在したと言われている。ロシア赤十字社は兵士の精神衛生プログラムを立て、神経精神科症例の記録の制度を確立している。その結果、従軍精神科医は神経的、精神的症例の特別な評価ができるよう、できるだけ前線に配置された。
1918年Salmonは「即時」(immediacy)「近接」(proximity)「期待」(expectancy)の治療の3大原則を打ち立てた。彼はフランスやイギリスの軍の病院を訪問し、合衆国陸軍軍医総監に同様の予防と治療の階層的システムを導入するよう勧め、その結果自身アメリカ遠征軍精神医学部長に任命され、即座にその計画を実行した。つまり、「早期に戦闘地域の現場において対処し、兵士としての誇りと存続を保証する」という原則である。戦争神経症の患者は、傷病兵治療所>常置病院>基地とより前線で治療することが推奨され、さらに戦闘部隊自体で激励、休息、信念や暗示を与えることができればさらによいとされた。この概念はその後の米軍におけるストレスコントロールの基盤となっている。
当時の従軍精神科遺憾の任務は以下のようなものであった。
①精神的、神経的疾患を調べ、診断、扱いや配置について指揮官に助言
②要求あれば法廷で証言
③医官その他の人に障害の性質、診断や扱いについての「臨床講話」をする
④入念な記録の保存
⑤軍医長官に定期報告を提出し助言
師団精神科医は、野戦病院に配属され主としてトリアージを実施している。また、活動範囲は、必要に応じて前方は救急車処置所、後方は後方野戦病院までにおよぶ。野戦病院では、15人の患者のケアをするのに一人の下士官が配置されていた。前方のトリアージで、師団精神科医は全ての神経性の症例を分類し、後送すべきでないものは戦闘部隊に復帰させ、特に消耗の症例は、休息や暖かい食事を取らせて治療を行っていた。
 Salmonは、イギリス軍の経験からストレス傷病兵に明確な診断的分類を使用しないことの重要性を学び、「未診断(神経性)」という意味の「N.Y.D.N.」(not yet diagnosed nervous)という言葉を使用することを推奨している。これは「シェルショック」に含まれる身体的脳損傷という解釈や「戦争神経症」という診断名に含まれる“精神科”疾患という表現からのマイナスの暗示を無くし、兵士に期待を抱かせることを目指したものである。当時の治療段列は3つの階層から成り立っている。最前線の野戦病院には150床の簡易ベッドが設置してあり、適切な対応がとられると、治療を受けた傷病兵の70%以上が、5日以内に任務に復帰したという。2番目の階層は師団からわずか数マイル後方にあり、衛生要員によって構成され、精神科医が指揮監督している。ここでの治療は、師団から後送させなければならなかったNYDN症例に、短い休息と集中的なリハビリテーションを提供することにある。その結果、症例の約55%が平均2週間後に任務に復帰している。さらに後方の3番目の階層にあたる病院では、前述の病院から任務に復帰しなかった兵士に対して、数週間のよりいっそうの集中的な再生治療を提供するものである。またここでは、任務復帰に不適と判断された「真の」精神科症例だけを扱う場合もある。スタッフは、精神科医、陸軍精神科看護官、職業訓練をして雇われた衛生兵、民間から志願した作業療法士から構成された。ここで特に重要視されたのが看護スタッフと作業療法士の役割であった。看護スタッフは病棟における指揮の高揚に貢献し、兵士の自信回復に作業療法士によるアプローチが欠かせないことが注目されたのである。その後合衆国では、アメリカ赤十字社が軍の患者を援助するために精神科ソーシャルワーカー(PSW)のプログラムを確立している。この最後方の病院からでも高い任務復帰率はあったが、ここで治療を受けた兵士の多くは後方の非戦闘業務への復帰をしている。
 このように第1次世界大戦では戦闘時における兵士の精神障害への関心が強まり、その対応・技法が一躍発展したといえる。しかし、その後米軍では徐々にその関心は薄れてゆくこととなる。その結果、陸軍省においても精神科専門家は不在となり、1939年、師団精神科医は不必要であるとされ廃止された
 一方、第2次世界大戦では戦争神経症の発生を予防するために入隊前のスクリーニングテストが行われた。つまり、「神経症質特性」(爪噛み、夜尿、家への逃避など)の徴候を呈する徴集兵を不合格とし、入隊後の兵士にもこの方針を適用した。この結果250万人の兵士が排除された。徴集された兵士の7人に1人が不合格となり「失われた師団」と呼ばれている。しかし、この試みは成果を挙げることが出来なかった。Glass(1966年)はこのスクリーニングについて第1次世界大戦で入隊前にチェックアウトした兵士が5-6倍に達したにもかかわらず、精神障害の発生率は逆に3倍近くになったことを指摘し、この兵士の質を均一化させるスクリーニングは逆効果を生み出す危険性を警鐘している。
チュニジア戦争時(1943年)、前方治療方法が再び行われるようになる。当時カナダ軍に属していたHanson大尉がアメリカ軍に配属した。Hansonは、神経精神科患者の後送を避け、兵士を休ませたり、すぐに部隊に戻れると示したりする48時間の治療を実施し、患者494人の70%以上を戦闘に復帰されるといった実績を残した。その後米軍では再度前方治療の原則に立ち返り戦地におけるストレス障害のプログラムを立て直すことになる。
1943年、Bladley将軍は、精神科医などの勧告により、精神科患者の収容を7日間と定め、戦争による精神科症例に対する最初の診断として「消耗」(exhaustion)という言葉を指定した。また、再び師団に精神科医が早急に配属さている。この結果イタリアの戦線でその真価を発揮している。
神経精神医学のユニットは、師団内で内科や外科と同格に取り扱われ軍の医学学校や民間の学校から、精神科医不足を補っている。当初は、1年以上の精神医学教育を受けた医師に4週間の教育を実施していたが、精神科医師の不足のため、その後、精神医学教育を受けていない医師に2週の教育を実施し、戦争後期までに、精神科医が各師団に配属されるに至る。
部隊の前方には「休養センター」や「消耗センター」があり、戦闘消耗症例は、数日間の休息をした。また、兵士を交代でこれらのセンターに送り、短期間の「rest & recreation」(R and R)をとることを義務化している。師団精神科医の主要な職務の一つにこうした前線部隊の医官に戦闘精神医学の原則と実践を教育することがあった。
第2次世界大戦後期になると師団精神科医は、師団後方において、より重度の戦闘消耗症例をトリアージし、1~2日収容して治療するとともに、師団の訓練リハビリテーション(T&R)センターにおける3~5日間のリハビリを実施している。このT&Rセンターでは戦闘を引退した士官・下士官、小外傷をおった兵士(戦闘消耗を含む)を配置させ活用を図っている。
更に、師団の後方には、250床の病床を有した神経精神医学センターが置かれ、
① 前方に置けないほどの重症症例
② 5~7日の治療で回復不十分の症例
③ 作戦上の要求で過剰に発生した症例
に対する治療を実施している。この後方施設においては、患者に体力回復、熱いシャワー、よい食べ物、快適な簡易ベッド、レクリエーション等を構造化されたプログラムで提供し、90%の戦線復帰を図っている。
 第2次世界大戦では前述のような復帰プログラムが実践されるとともに、戦闘行動に伴うストレス障害に対する様々な教訓が得られ、それらは多角的に分析された。それらの教訓の一例として次のような事項がある。
① 開戦前のスクリーニングは無効であること
② 戦闘ストレスと強く関連する要因は次の3要因が重要である
(ア) 戦闘の強さ
(イ) 志気の高さ
(ウ) 部隊の団結の強さ
③ 戦死者や外傷者の数と精神障害者数は比例する
④ 新兵及び高齢兵士は戦闘ストレスに弱い
⑤ 戦闘開始後1~2ヶ月で障害の3/4が発症する
⑥ 連隊規模では戦闘開始88日がbreaking pointとなる。この時期は最初の死傷者が出る時期と一致
⑦ 中隊レベルの戦闘では50日以内に90%が戦線離脱する(様々な要因)
⑧ 戦闘ストレスに限局すると離脱の95%は戦闘開始後260日以内である
 breaking point という概念はMeninger(1945)によって導入された。後にKardiner(1959)は兵士がbreaking pointに近づくと食欲不振、不注意、茫とした表情、驚愕、緊張、悪夢や不眠が出現し、これを放置するとヒステリー症状や抑うつ症状に発展すると述べており、慢性期の病状から、①悪夢の反復、②易刺激性と驚愕、③外界と自我の関係の変化、④爆発的、攻撃的傾向、⑤知的、心的機能の退化の5つの病型分類を行っている。
 朝鮮戦争においては2次世界大戦の教訓を受け更なる工夫が行われた。その一つがポイントシステムの導入である。これは戦闘時間と戦闘任務をポイント制として定期的休息と部隊の9~12ヶ月ごとのローテーションを開始するシステムである。しかし固定期間の任務ではshort timer’s syndromeの発生(任務最終週に不安、緊張)という問題が生じるマイナス面もあった。この方式はその後のベトナム戦争でも採用されている。もう一つの工夫はGlassの提案で開始されたKOチームの編成である。このチームはサポート体制の機能の拡充を図るために移動型のカウンセリングチームを備えたメルヘルス支援組織として編成された。師団レベルのメンタルヘルス能力を強化し、戦闘時の一次的疲労対処を実施するとともに、異動コンサルテーションの実施(ドラマ「MASH」で有名)を行った。Glassは朝鮮戦争後の分析で戦時の精神疾患の発生率は1年目で第2次世界大戦時の半数となり、終戦の年には平時との格差が殆どなくなったと発表している。
 ベトナム戦争でも朝鮮戦争に引き続きKOチームの派遣が実施された。構成は精神科医3名、神経科医1名、ソーシャルワーカー2名、臨床心理1名、精神科看護士1名、12~15名の補助スタッフと規模の拡張が図られている。このチームの任務は精神・神経治療、評価センターを設立し30日以内の入院治療で90%を任務復帰させた。治療理念としては従来からの教訓である「患者としてではなく兵士として扱い、任務復帰の期待を抱かせる」ことであり、原隊からの定期的訪問、手紙の配信、給与の支給等を指揮官の協力の下に義務付けた。更に身体的外傷に関してもKOチームは心理学的支援を実施している。ベトナム戦争においては戦闘疲労の中に「熱、脱水、下痢、睡眠不足、等が含まれていたことが判明し、精神及び神経の2本柱の治療概念の出発点となる。ベトナム戦争の前半期には戦闘疲労症例は極めて少なかったことが報告されている。Tiffany(1969)は1965年から1966年の精神疾患患者の発生率は1000対12であり、第2次世界大戦の1000対101、朝鮮戦争の1000対73と比べて著しい低い数値を報告している。この結果に関しては前線におけるローテーション(365日)の厳守、R&Rスケジュール(保養と休暇)の実行、武装の強化と空爆支援、ヘリによる戦傷者の後送、KOチームによる治療、脱水等に対する身体管理の強化等の成果であると評価されていた。
ベトナム戦争は1960年代の初頭から1975年までの10数年にわたった戦争である。この戦争は従来の戦争とは様相が異なる特殊なものであったといえる。その特殊性とは明確な戦線がなく、そのため安全な後方地域が確保できなかったこと、ジャングル戦のため環境が劣悪であったこと、敵の攻撃はゲリラによる奇襲攻撃中心であったこと、とりわけ戦争の進展に伴い国内における反戦運動が活発化したこと等である。当初は功を奏していたかに見えた精神科プログラムであったが、戦況が泥沼化するにつれて重大な問題が発生したのである。つまり、アルコール乱用、麻薬乱用、覚醒剤乱用、上官殺しといった兵士の行動障害が目立ち始めた。こうした行動障害の増加はBomanが 1968年のテト攻勢後に米軍の軍事的敗北が濃厚になってからの現象であることを指摘している。この問題は先々復員兵の自殺、犯罪の増加、浮浪者への移行等の社会問題にまで発展することとなる。ベトナム戦争の当初まで行動障害の問題は戦闘疲労の概念に含まれていなかったといえる。
Shatan(1973)はベトナムからの復員兵を調査し彼らに認められる心理的問題を次のようにまとめ、ベトナム後症候群(post Vietnam syndrome)と命名した。
① 無意味な殺人、自分のみが生存したことの罪悪感
② 社会や上司に対する恨み、犠牲感
③ 対象の定まらない怒り感情
④ 感情の平板化
⑤ 周囲の人や社会からの疎外感
⑥ 信頼することの恐れと自信喪失
彼はこれらの心理的特長は復員した兵士のみならず戦闘中の日社会的行動や、薬物乱用とも関連していることを指摘している。
 戦闘に伴う精神症状の発生及び病像形成要因については以前より活発に討議されていた。戦闘そのものの性質、部隊の士気、団結、兵器の殺傷能力の変化、戦場の環境、レクレーション施設の乏しさ、過度の身体的負荷、熱帯病などの身体疾患、孤独感、個人の資質等々である。しかし、ベトナム復員兵の問題はその要因分析をより複雑化させたといえる。敗北意識、戦闘終了後の短時間での帰国と社会復帰、復員後の処遇や世論の風当たり等、戦闘後の要員も考慮する必要が指摘されたからである。
 1980年アメリカ精神医学協会は統計診断マニュアルの第3版(DSM-Ⅲ)を発刊し、その中に心的外傷後ストレス障害(post-traumatic stress disorder)の診断名が盛り込まれた。心的外傷後ストレス障害の診断名の成立にはベトナム戦争における復員兵の問題が強く関連していることは疑いがない。
その後Yom Kippur 戦争(1973)をきっかけとして米軍ではOMチームが結成される。このチームはKOチームよりより地域支援型のユニット(KOは病院独立型)であり、HQとして精神科医指揮官、臨床心理、野戦衛生幹部、補助員数名が存在し、3つの移動型コンサルテーションチームを保有している。(精神科医、ソーシャルワーカー、行動科学専門官6名、車両2台)また、1つの治療部門(精神科医、精神科看護士2名、11名の専門スタッフ、25床の精神科ベッドを保有した緊急病院の開設)を備え総合病院等の支援を実施するものである。このチーム編成は1984年のarmy regulationの改定とあわせ現在の米軍のCSC(combat stress control)の基盤となっている。

2.ストレスとPTSD対処
PTSDはフロイトの概念である「外傷神経症」が発展したものであるが、専門的には急性、慢性、及び遅発性を含む一連の戦闘ストレス障害の一部と言える。PTSDの慢性型と遅発型はベトナム戦争と1982年レバノン戦争で注目を集めた。重要な点はPTSDによる症状は戦闘との遭遇、不慮の事故、拷問、災害、犯罪、残虐行為や非日常的出来事への遭遇などあらゆる悲惨な心的外傷後に生じうることである。過酷な扱いを受けた戦争捕虜たちはとりわけPTSDを発症しやすい。急性期においてはその症状は図表に示したような感情、認知、知覚、情動、行動における様々な反応が複合したものであり、強い心理的外傷に対する比較的正常な反応と言える。しかしその症状が持続した場合は一つの固定症状となり、反応性が強化され継続的なものとなりうる。症状に対して初期対処とその後に少しでも陽性強化を回避することは予防的に重要な方法である。第2次世界大戦以後の研究で急性戦闘ストレス障害(戦闘疲労)に対する不適切な対処例が慢性PTSDによる戦後不適応の大半を占めていることが判明している。

トラウマ(心的外傷)というと死に直面するような極めて高緊張下の心的体験をさしている場合が多いが、ストレス障害の研究の基盤となった戦闘行動と精神症状の関係を振り返ってみるとベトナム戦争に代表されるように低緊張度のストレスも無視することが出来ない。ベトナム戦争と1982レバノン戦争後に多数の退役兵が慢性・遅発性PTSDに苦しんだ。PTSDは一般的には急性の過剰ストレス状況下で発生すると考えることが妥当である。しかし、孤独やフラストレーション危機(ホームシック危機)が特徴的な緊張度の低い戦闘場面でも様々な要因から精神症状が発生する。一部の急性ストレス反応や慢性・遅発性PTSDもこの範疇において扱うべきであろう。緊張度の低いダラダラとした戦闘における行動障害はアルコール・薬物依存、暴力行為、規律違反などの行動として認められるが、退役した戦後の生活まで尾を引く。このような症状は特に十分な戦果が上がらなかった場合や、症状による心理的、経済的利得がある場合、社会的要因が関与していることが知られている。例えば第1次世界大戦のドイツ軍の退役軍人の多くに慢性・遅発性PTSDが多く認められたが、第2次世界大戦ではこうした症状の出現は少ない。この原因として第2次世界大戦後には神経症状態(非精神病性、非気質性)の退役軍人に年金支給が行われなかったためとの分析がされている。ベトナム戦争においては復員兵への社会の風当たりが強かったこともその一因といわれている。
 PTSDの治療的視点については要約するなら次のようになる。
① 戦闘時の精神医学的原則に基づいた急性戦闘ストレス障害の治療
② 慢性・遅発性PTSDによる症状を悪化させない
③ PTSDに随伴する行動障害、特に麻薬、アルコール乱用を特定し、それらも同時に治療する
④ 不適応行動の矯正を強調した感情・記憶を喚起させるような治療
⑤ ケースによっては注意深い薬物療法
また、Bensonにより紹介された治療法の一つであるリラクセーション技法の活用は薬剤に頼らないで不安症状に対処する有効な方法であるが、薬剤と併用することもできる。
 近年では、危険行動後には日常的にデブリーフィングを実施することが外傷後ストレスを軽減するために重要であると言われている。ベトナム戦争においては兵士の1年交代の原則、これは表面的にはストレスの蓄積による精神障害の防止を目的としたものであった。一方指揮官を6ヶ月間(後半では3ヶ月)で戦闘外部隊へ配置が得させる原則については、より多くの指揮官に戦闘体験をさせることも目的としたといわれる。また部隊を残し戦死者の補填を個人の配置換えで行う原則がとられたが、これらの原則は相互に部隊の団結を損なう結果となった。しかし一方ではホームシック障害の防止に少なからず貢献したのかもしれない。兵士や海兵隊員の多くは任務終了後直ちに商用機を利用して戦地を後にした。そのため戦友と作戦任務の思い出を語る機会が無かった。また、帰国後も復員兵達は戦死した戦友の記憶、自分の戦争体験、戦果、また失ったものについて深く話し合ったりする機会は全く無かった。ベトナム戦争復員兵のPTSD発生の背景にこのことが関連しているとの反省から、現在米軍では構造的なデブリーシングが取り入れられるようになっている。デブリーフィングは事態の内容、先導者(デブリーファー)、対象グループの規模、実施時期等により次のようなものがある。
① 行動後レビュー(AAR)
② 行動後デブリーフィング(AAD)
③ 民間緊急事態ストレスデブリーフィング(CISD)
④ 重大事案デブリーフィング(CED)
⑤ 精神医学的デブリーフィング(psychiatric debriefing)
⑥ 大グループデブリーフィング
⑦ 解除デブリーフィング 他
AARは全ての訓練等の後に行われる技法であり、訓練行動による学習内容・教訓の確認が主目的となる。危険のない訓練に適応され、感情の転換・共有などは必要ない。
AADは指揮官により少人数を対象に実施される。このセッションでは事態の事実を明らかにして教訓事項を検証し、全ての参加者に彼らが見聞きしたことと、とった行動を述べさせる。勘違いや誤解はこの過程において修正され、受けた感情や心理的反応が共有される。
特殊な外傷的体験後には各少人数グループはCISDを受けることになる。このセッションは事態発生から数日以内に持たれ、熟練したデブリーフィングチームにより主導される。危機事態デブリーフィングでも参加者全員から事態の事実関係を聞き出し、慎重に参加者が彼らの思考、感情的反応、ストレスによる身体的症状を言語化し追想することを支援する。デブリーフィングチームはこれらの反応が健常なものでるあることを強調するとともに、その場でそれらを表出することがじ後の予防措置として重要であることを示す必要がある。
CEDはソマリア派兵の際デブリーフィングテクニックの訓練を容易にするためにプロトタイプのポケットカードが配布された。カードはCISDの7段階に基づく拡張モデルであり、主として事実段階において間断なくスケジュールを記入することに重点を置いている点が異なる。一見、AADに類似するが、AADが小部隊の指揮官が先導するのに対し、CEDは部隊の人員でない訓練されたデブリーファーによって先導される点で異なる
精神医学的デブリーフィングは大人数に対してストレスとPTSDの予防に関する教育を実施するもので精神療法的な意味合いも強い。デブリーファーは精神医学に関する知識を備えている必要がある。
大グループデブリーフィングは100~500名を対象として指揮官がが、キーパーソンとなる兵士に補助してもらいながら、危機的な出来事や長期の作戦行動に関して、事実の振り返りと再構築を行うもので、解除デブリーフィングに適している。但し、このタイプのデブリーフィングは、非常に衝撃的な出来事への適用は限られる。
解除デブリーフィング作戦全体を通じての主要な出来事を総括するもので、過去の出来事、考え、反応などについて全員が話す。その後、漸次良かったこと、悪かったこと、学んだことなどについて話しあう。作戦中は、外傷的な出来事のあるなしに関わらず、多くの葛藤や憤りを引き起こし得る。これらを吐き出して、家に持ち帰らない事が目的である。このプロセスは、前向きな方向性をもって終わるべきで、固定した方法にこだわらなくてもよい。状況に応じて進行の仕方を変えるべきである。

米軍のArmy Regulation War Psychiatry よりの抜粋訳であり「防衛医学」の“特殊環境下のストレス”に投稿

ストレス対策 12 男性と女性のストレス解消法(その2)

ストレス対策 12 男性と女性のストレス解消法(その2)


 そこで彼女たちに自分たちがとっているストレス対策方法について聞いてみると、以外にも単純な答えが返ってきました。それは「おしゃべりをする」「運動をする」「あれこれ考えすぎない」というものです。また彼女らは独自の工夫として、対人関係上のトラブルを回避するために一定期間ごとに「部屋(コンテナ)換え」を行うという方法をとっていました。


 GHQ-30の結果はイラク復興支援という特殊環境下で受けた様々なストレスにより、心身の状態が変化した内容とその度合いと考えることが出来ます。しかし、これらの変化はあくまで心身のストレス変化であり、必ずしも治療を必要とするものではありません。ストレスを受ければ必ず心身には変化が生じるものです。問題はこの変化にどう対処するかが重要なのです。この結果から見る限り、面談した女性自衛官達はうまいストレス対処をしていたと言えるでしょう。


 以上述べてきたことから「女性のほうが男性に比べてストレスに強い」などと断言する気は毛頭ありません。しかし、ストレスに対処する手段については日ごろの臨床からも男性と女性で違いがあるように感じていました。


 最近ある興味深い研究結果を目にしました。その研究によると、ストレス解消法について自由記述で回答を求めたところ、性別で有意差が見られた(p<.05)というのです。解消方法として、男性では「運動」(50.0%)が最も多く、次いで「趣味・活動」(27.8%)、「嗜好」(27.8%)が挙げられ、これに対して女性は、「休養・休息・寝る」(43.4%)、「友人との交流」(43.4%)、「相談する」(12.1%)が多いという結果が出ています。そして、考察として、男性は個人的な領域での解消法を好み、女性は対人的な関わりの中での解消法を好むという性差を指摘しているのです。つまり、男性型ストレス解消法は個人的解決方法で、女性型では周囲からのサポート型ということになります。この見解には私も同感です。


 このストレス解消法はあくまで、健康な時点においての予防・解消方法です。しかし、うつ病や治療すべきストレス障害に陥った場合は、明らかに女性型ストレス解消法のほうが有効だと思います。実際、うつ病は男性に比べ女性の罹患率が2倍近く高いにもかかわらず自殺率は遙かに低いことが知られています。この原因として女性は悩みを男性に比べて口にしやすい傾向があり、自殺手段も男性が致死性の高い手段を取ることに対して、女性は躊躇いが強いからだというのが通説です。うつ病やストレス障害において、男性型ストレス解消法をとると、その障害のために個人解決が出来ないからです。うつ病などの治療にサポートが重要であることは以前にも述べましたが、男性の場合はその特性として、「人に弱みを見せたくない」「自分のことは自分で解決する」といった発想に偏りがちなため、サポートを得ることが下手なのだと思われます。


 男性のストレス解消方と女性の解消法のどちらが優れているかを判断することは困難です。おそらく対処すべきストレス毎に、その背景や状況、性質、強さ、持続時間等により違いがあると考えられるからです。男性型ストレス解消法と女性型ストレス解消法にはそれぞれメリットとデメリットがあると考えます。ストレスの種類によってうまく使い分けることが出来れば最高です。

ストレス対策 12 男性と女性のストレス解消法(その1)

ストレス対策 12 男性と女性のストレス解消法(その1


 男性と女性でストレスに対する反応に違いがあるのかでしょうか。性差をつかさどる最も大きな要因は性ステロイドホルモンの影響でしょう。思春期に男児は血中にテストステロンを放出し、女児はエストロゲンと呼ばれる女性ホルモンが産生されます。動物実験の研究で「ストレスに対してオス動物で強い影響が見られ,メスではそれほど強い影響がない」などの研究報告もあります。ストレスと性差に関してはその他にもたくさんの研究がありますが、社会的ストレスに対する感受性の違いもこの性ステロイドの違いから説明されていることが多いようです。


 ストレスによる心身の反応は近年の研究で確実に生物学的な問題であることが明らかにされつつあります。この点から考えてみると確かにストレス反応そのものにも性差があってもおかしくありません。よく考えてみれば、出産は大変なストレスだと想像します。しかし、1年経つと女性はまた出産します。男性である私自身が考えるに、こんな事は男性にはおそらく耐えられない心身の負担だと思います。少なくともある特定のストレッサーに対する反応の程度、心身の回復力の早さにおいては、女性の方が男性に優っている気がしてなりません。


 しかし、ここで男性と女性はどちらがストレスに強いのか、その特徴はどうなのかを述べてもあまり皆様の参考にはならないと思います。そこで今回はイラク復興支援活動に従事した女性自衛官たちと現地で面談した結果から私が個人的に受けた印象を述べてみたいと思います。


 サマーワには各次隊(任務期間は3ヶ月間)約10名の女性自衛官が派遣されていました。大半は20代の若い女性です。皆様のご想像どおり、サマーワは決して居心地の良い所ではありません。特に初期の段階では女性自衛官は入浴施設がシャワーのみであるとか、トイレも限られた個数しか設置されていないなどの問題もありました。また、多くの男性隊員との共同生活を行うわけですから、当然様々な不満が噴出するだろう事が予想されたのです。しかし、実際に面談してみると生活環境(宿泊施設、衛生関連施設、厚生施設等)に関する不満はほとんどきかれず、問題となっていることの多くは、女性自衛官同士の対人関係、男性隊員との関わり方などの対人関係上の問題や、危険回避のために任務の行動制限を受けたことに対する残念感などです。


 現地では心理テストのひとつであるGHQ-30(general hearth questionnaire)を隊員全員に実施しています。その結果だけを見ると女性自衛官は身体症状、睡眠障害、不安と気分変調の項目において全体平均を大きく上回り、ハイリスク者率も2倍近い結果となっているのです。


 しかし、面談をしてみて治療を必要とする女性自衛官は一人としていませんでした。なにより驚いたのは彼女達の表情が実に明るかったことです。皆それなりのやりがいを持って任務に励んでいるという印象が持たれました。

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その4)

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その4)



 太郎と一郎の喧嘩は喧嘩をして二人の仲が悪くなったという事実と、その後二人には怒りの感情と後悔の念が入り混じった不全感が残ることになります。しかし先生のような良き仲介者がいると二人は再び以前のように楽しく遊ぶことが出来るでしょう。この仲裁にはある流れがあります。その流れとは次のようなものです。


① 事実の確認をすること
② その時にどのようなことを考えていたのか
③ その時どのような感情や、気持ちになったのか
④ 今思い返すとどうするのがいいのか


 仲裁人の役割は指示をすることではありません。もし先生が「お前たちは何をやっているんだ。喧嘩なんかしたら駄目じゃないか。お互いに謝って仲直りをしろ。」と言ったら二人は本当にもとの仲の良い友達に戻ることが出来るでしょうか。仲裁では両者に相手と自分の気持ちを気づかせてやることが大切なのです。


 集団心理療法の一つにデブリーフィングという技法があります。デブリーフィングは兵士が受けた戦闘ストレスに対する初期対応に米軍で用いられているものです。このデブリーフィングは阪神淡路大震災後の被災民に対しても一部実施されたと聞いています。悲惨な出来事によって引き起こされた激しい怒りや悲しみ、戸惑いなどの感情のために混乱した状態を、初期の段階で情報の共有化をはかることにより、その出来事を再認識することが目的です。具体的には数名程度の小集団に対してデブリーファーという指導者のもとで、次のような6ステップが実施されます。


 1.導入:参加意思確認、趣旨説明、自己紹介
 2.事実確認:正確な事実情報の共有と事実に対する考え方
 3.反応:怒りの対処、一般的には45min~1h
 4.兆候と症状:心理、認知、感情、行動面における変化の認識
 5.教育:その事故の特異性に合わせて家族への対応、ストレス反応の対処、悲しみの対応等を教育(具体的に)
 6.再導入:雰囲気の正常化の確認と終了宣言


 どうですか?喧嘩の仲裁とよく似ていると思いませんか。


 現代社会のストレスのうち対人関係上のストレスは非常に大きなウエイトを占めていると思います。職場の上司と部下の関係、夫婦関係、親子関係、異性関係、友人関係、こうした人間関係において、私たちは心の中で喧嘩の仲裁のようなストレス対策を採っているのではないでしょうか。

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その3)

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その3)


 太郎と一郎の関係を修復するにはどうしたらよいのでしょうか。本来二人はとても中の良い友達です。ちょっとした行き違いで大切な友人を失ってしまうことはとても残念なことです。昔小学校で喧嘩をすると先生が仲裁に入ってくれたことを思い出します。例えばこんな具合です。


先生 「一郎、太郎ちょっと職員室まで来い」
    「いったい何があったんだ。先生に経過を話してみろ」
太郎 「新しいゲームを買ってもらったので、一郎と一緒に遊びたくて誘ったのに、『お前はどうせ自慢したかっただけだろう』と言われ、その後に一郎から殴られました」
一郎 「ゲームがしたくて太郎の家に行ったのに、太郎は自分ばかりやって僕には遊ばせてくれませんでした。太郎は  『悔しかったらお前も買ってもらえばいい』と言った上に父親の悪口まで言われました」


先生 「そうか、ところで一郎、お前はどうして『悔しかったらお前も買ってもらえばいい』なんて言ったんだ」
一郎 「だって、太郎が『お前はどうせ自慢したかっただけだろう』なんて言うから悔しくて、腹が立ってつい口にしてしまいました」
先生 「太郎、お前はなぜ一郎のお父さんの悪口まで言ったんだ?それはお前の本心か?」
太郎 「いいえ、『少しくらい親が金持ちだからといっていい気になるなよ』と言われてムカッとして言ってしまいました」


先生 「太郎、一郎に悪口を言ってすっきりしたか?」
太郎 「いいえ、一郎のお父さんのことまで言ったのは言いすぎだと思います。喧嘩の後はずっとモヤモヤしたいやな気分が続いています」
先生 「一郎、太郎を殴ってどんな気分がした」
一郎 「そのときは悔しくてつい殴ってしまいましたが、家に帰ってから申し訳ないと後悔しました」


先生 「太郎、一郎に何か言いたいことはあるか」
太郎 「一郎、ついゲームに夢中になってしまってお前の気持ちを考えられなかった。それから、お父さんの悪口を言ってごめん。」
先生 「一郎はどうだ」
一郎 「僕こそ殴ってごめん。本当はずっと誤りたかったんだけれどなんだか恥ずかしいと言うか、もう太郎に嫌われていると思って言えなかった」

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その2)

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その2)

 小学校6年生になる太郎と一郎は家が隣同士であったこともあり幼いころからいつも連れ添って遊ぶ中の良い友達でした。太郎は裕福な家庭に育ち、勉強がとても出来ました。しかしクラスでも一番背丈が低く、運動は苦手です。一方の一郎は、勉強は苦手ですが腕っ節が強くひょうきんな性格からクラスでも人気者です。ところがある日一寸したことから喧嘩になったのです。ことの経緯はこうです。


 新しいゲームソフトを買ってもらった太郎は、早速一郎を自宅に呼びました。一郎も喜んで、すぐさま太郎の家に駆けつけました。しかし、ゲームを始めること太郎は自分ひとりでゲームを独占し、いくら一郎が「俺にもやらせろよ」といっても「もう少しだから」と言ってかわろうとしません。怒った一郎は「もういいよ。お前はどうせ自慢したかっただけだろう。少しくらい親が金持ちだからといっていい気になるなよ」と文句を言いました。すると、太郎はこう反論しました。」「その言い方はないだろう。せっかく誘ってやったのに。少しくらい待てないのか。悔しかったらお前も買ってもらえばいいじゃないか。どうせおまえのとこの親父の給料じゃ望めないけど」当然のことながら、自分のことはさておき父親のことまでけなされた一浪は我慢できずに太郎の顔面を殴ってしまいました。


 このことがあって二人の仲は最悪です。お互いに相手のことを考えると腹が立って仕方ありません。太郎としてはせっかく親切心で一郎に声をかけたつもりなのですが、「自慢したかっただけ」と急所を疲れ更に一方的に殴られてしまったのです。一郎としてはゲームをしてみたくて喜んで駆けつけたのにさせてもらえないばかりか、親の悪口まで言われ我慢なりません。二人は学校で顔をあわせると喧嘩のことが思い起こされ、腹立たしい感情がわきあがります。しかし、家に帰って部屋で一人でいると、妙に悲しい気持ちがするのです。


 喧嘩とはこうしたものです。一寸した行き違いや言葉尻に怒り感情が発生すると、その怒りの感情に任せて相手にとって触れてほしくない部分に土足で侵入してしまうことになります。ここにはコミュニケーションの形態はありません。まったく相手に対する気配りがかけた状態だからです。「売り言葉に買い言葉」という格言がありますが、まさにそのパターンです。また、太郎と一郎のように喧嘩の後も怒りや悲しみなどの感情が交錯してその感情をうまくコントロールできなくなることもあるでしょう。

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その1)

ストレス対策 11 けんかの仲裁(その1

 強いストレスが加わると恐怖、不安、怒りなどの様々な思考や感情が沸きあがります。PTSD(post traumatic stress disorder)は心理的に強い衝撃ある体験をした後、長期間にわたり心身のバランスが乱れた状態が持続するという病態です。PTSDは一時的なストレスにより引き起こされる病気ですが、最近は慢性的なストレスの傷害も注目されています。これらストレスによる障害は、自分が抱いている思考や感情がコントロールできず、一人歩きしているために生じる場合があります。


 社員Aの場合を考えてみましょう。彼は3ヶ月前に異動になり、商品の企画開発関連の業務についていますが、彼の上司は口うるさく厳しいことで知られている人物で、毎日のようにその上司から強い圧力を受けてきました。その上司の機嫌の悪いときは決まって気の弱い社員Aは呼びつけられます。そして、一方的に「お前は本当に役に立たない奴だ。もういいから部屋の片付けでもしておけ」などと罵られることがしばしばあるのです。社員Aは慣れない仕事で確かに周りの社員と比べると仕事のペースが遅いため、上司に対して反論することもなく、その都度顔は真っ赤になり、頭の中は真っ白になっています。こうした状態が長く続き、社員Aは「自分は本当に役立たずで、駄目な人間だ」と考えるようになりました。自信をなくし将来を悲観する一方、慢性的な疲労を感じるようになり、家に帰っても理由なくイライラして夜も眠れない日が続くのです。


 読者の皆さんの中には「そんな理不尽な上司の叱責で『自分が駄目な人間だ』と考えることはおかしいのでは」とお考えの方もいると思います。しかしこうした心理的影響はしばしばあります。例えばセクハラにあっている女性が「自分のほうが過敏になっているだけなのでは」と考えてしまい、セクハラ行為に長く苦悩することもあります。


 この社員Aの場合、ストレスの原因は上司からの叱責による恐怖感と反発感情としての怒り、仕事がはかどらない焦りや苛立ち、今後どのように対処してよいかわからない不安などが入り乱れていることにあるのですが、彼の判断としては「自分の能力のなさ」が原因と判断しています。このケースでは、問題点の実情、自分の行動と思考、感情を冷静に客観的に分析することがストレス対策上有効な手段となります。


 私たちの日常生活の中で、このような激しい感情が生じる出来事の一つに喧嘩があります。喧嘩はまさにお互いの感情のぶつけ合いで、喧嘩をするとその二人の間には気まずい空気が流れます。また、仲直り出来ないと更に、マイナス感情が遷延することになります。しかし、二人の間に適切な仲裁者がいると案外けろりとその仲は修復するものです。喧嘩はほんの些細なきっかけから発展する場合が大半だからです。


 次回は太郎と一郎の喧嘩の場合を考えて見ましょう。

ストレス対策 10 リズムのある生活(その2)

ストレス対策 10 リズムのある生活(その2)


 一方、病気によって生活リズムが大きく乱れることがあります。このリズムの乱れは精神的にも身体的にも一層疲労をもたらすことになります。うつ病やストレス障害では一日の日内リズムが乱れて、起床時間が遅れたり、寝つきが悪くなったりします。仕事ははかどらず帰宅時間も遅れがちになります。計画していたことや家事などが手につかなくなり、一日のタイムスケジュールが立ちません。


 うつ病やストレス障害の治療の過程である程度の症状改善が認められたとき、規則的な生活を送ることは非常に重要なことです。これは、生活にリズムをつけることになるからです。もともとうつ病は絶対的時間と体内時間がずれる病気だとも言われていますので、一日の生活に規則性を持たせることはその治療に有効なのです。しかし、そのような患者さんがきちんとしたタイムスケジュールを立て、それを実行することは決して容易ではないでしょう。


 そこでひとつ大切なポイントをお話しましょう。一日のタイムスケジュールを立てようとするとき、一般的には朝の起床時間から一日の時間の流れにそって立ててゆくことが一般的だと思います。しかしこのスケジュールはなかなか守れないのです。何故なら、うつ病などでは朝のリズムが一番取りにくいからです。せっかく「7時に起床」と計画しても初日から起きることが出来ないため、その日のスケジュールはすべてうまくいきません。そこで、就寝時間をまず取り決めて、時間の流れと逆にスケジュールを立てることをお勧めします。そうすると大半の人は正午くらいまでのスケジュールは無理なくこなすことが出来ます。自分で少し頑張って始めてみようということは体調に合わせて午後に計画しましょう。一番実行困難な午前中のスケジュールはもう少しリズムが回復してからで良いのです。


 今述べたことはあくまで一般的なケースの場合を想定していますが、うつ病やストレス障害の回復期において生活にリズムが出ると多くの患者さんは「回復している」という自覚が持てるものです。

ストレス対策 10 リズムのある生活(その1)

ストレス対策 10 リズムのある生活(その1

リズムのある生活は健康にも良いとよく言われています。一日のリズム、一週間のリズムがきちんと保てていると疲労防止になるからです。連日のように何が起こるかわからず、不測の事態に備えなくてはならない状況は常に緊張感を保持しなくてはならないため精神的なテンションのバランスが悪くなります。日によって勤務時間に大きな開きのある状況は睡眠と覚醒のバランスが乱れることになります。本来は休めるはずの週末も仕事に追われている人は、仕事と休みのバランスが崩れたリズムのない生活を送っていることに他なりません。リズムのある生活とは一定の期間の取るべき行動がある程度予測でき、睡眠と覚醒、仕事と休みのバランスが保たれた生活と言えるでしょう。


私自身このリズムの大切さは身を持って体験しました。以前防衛庁に勤務していたころ約3年間臨床を離れて行政的な業務に従事したことがあります。当時の勤務時間は朝7時過ぎに家を出て帰宅は遅い日は深夜を回る状況です。また突然の出張が年間100日前後とほとんどタイムスケジュールを立てられない状況でした。昼食はほとんどラーメンばかり食し、帰宅後に夕食をとっていました。すると体重は増えるわ、血圧は上がるわ、挙句の果てに尿糖まで出てしまったのです。当時の私は今から思うと結構いらいらして家族からも敬遠されていたように思います。


この悲惨な3年間を終えた私はこれではまずいとあることを決意したのです。それは、毎朝5時半から約1時間のジョギングです。朝から走ると疲れてしまうのではとお考えの方も多いと思いますがこれが意外と逆で、私にとってはすこぶる体調が良くなったのです。ランニング中、音楽を聴いたり、色々なことを考えたりしています。体力がついたことも大きな習得でしたが、何より一日のリズムが取れるようになったのです。笑われるかもしれませんがランニング後のストレッチと帰宅途上にコンビニによって62円の「ガリガリ君」を食すときがなんともリラックスできるのです。また、睡眠の時間帯もほぼ一定になりました。


リズムのある生活のとり方は人によって様々だと思います。自分の仕事や生活環境、年齢、趣味などに合わせたリズムを模索してみては動でしょうか。

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