第1部:教育の原点を問い直す
- 第1回 教育とは何か ― 人をつくるという原点に返る ―
- 第2回 なぜ今、教育を再考する必要があるのか ― 「今だけ、金だけ、自分だけ」の時代に ―
- 第3回 教育を受けたのに、教育とは何かを教わっていない ― 学ぶ意味を見失った社会 ―
- 第4回 認知能力と非認知能力 ― 点数では測れない力をどう育てるか ―
- 第5回 教育とは「人をつくる」ことである ― 能力ではなく、人間性を育てる ―
- 第6回 どんな人間を育てるのか ― 自分を修め、学び続け、自分らしく生き、他者と未来に責任を持つ
- 第7回 前編 教育する側の人間性が問われる ― 親、先生、先輩、上司は、言葉ではなく姿を見られて
- 第7回 後編 教育する側に必要な向き合い方 ― 優しさだけでは人は育たない。線を引く強さも教育である
- 第8回 家庭の教育力はなぜ弱くなったのか ― 家庭教育をどう立て直すか―
- 第9回 子どもだけでなく、大人こそ学び直す必要があるー子どもの問題ではなく、大人の未成熟の問題
- 第10回 模範となる大人が見えにくい時代ー 大人たちの不祥事が可視化される時代に、何を学ぶべきか
- 第11回 反面教師から学ぶ教育―真似したい人が少ない時代でも、「ああはならない」という学びはできる
- 第12回 教育の目的を再定義するー社会に従う人ではなく、自分を修め、個を活かし、和を進化させる人を育てる
ここまで、教育についてさまざまな角度から考えてきた。
家庭の教育力。
親になることの難しさ。
大人の未成熟。
大人こそ学び直す必要があるという問題。
模範となる大人が見えにくい時代。
悪い大人を反面教師にする力。
これらを見ていくと、教育の問題は、子どもだけの問題ではないことがわかる。
子どもが勉強しない。
子どもが言うことを聞かない。
子どもが我慢できない。
子どもが主体性を持てない。
子どもが将来に希望を持てない。
そう言われることは多い。
しかし、本当に問われるべきなのは、子どもだけなのだろうか。
親は、子どもを育てる準備ができているのか。
先生は、子どもを一人の人間として見ているのか。
大人は、自分自身を学び直しているのか。
社会は、子どもが信じられる背中を見せているのか。
学校は、子どもをただ管理する場所になっていないか。
会社は、自分で考える人を本当に求めているのか。
こう考えると、教育とは、子どもを一方的に変える作業ではない。
教育とは、大人と社会のあり方そのものを問い直す営みである。
これまでの教育は、社会に適応する人を育てることに大きな重きを置いてきた。
先生の話を聞く。
決められた時間を守る。
ルールを守る。
周囲に合わせる。
迷惑をかけない。
集団行動ができる。
与えられた役割をこなす。
組織の中で問題なく働く。
こうした力は、もちろん大切である。
人は一人では生きていけない。
社会の中で生きる以上、ルールや協調性は必要である。
自分勝手に振る舞ってよいわけではない。
他者に迷惑をかけない意識も必要である。
しかし、それだけが教育の目的になってしまうと、教育は「社会に従う人」をつくるものになってしまう。
疑問を持たない。
違和感を飲み込む。
空気に従う。
正解を待つ。
言われたことだけをやる。
失敗を恐れる。
周囲と違うことを避ける。
おかしいと思っても声を上げない。
このような人を育てることが、教育の目的なのだろうか。
これからの時代は、社会そのものが大きく変わっていく。
AIによって仕事の形は変わる。
人口減少によって地域や産業のあり方も変わる。
家族の形も、働き方も、価値観も多様化していく。
SNSによって情報はあふれ、正しさを自分で見極める力も必要になる。
会社や組織に従っていれば安心できる時代でもなくなっていく。
そのような時代に、ただ社会に合わせるだけの教育でよいのだろうか。
必要なのは、社会に従う人を育てることではない。
自分を修める人を育てること。
個を活かせる人を育てること。
他者と共に生きながら、和をより良い形へ進化させられる人を育てること。
これが、これからの教育の目的ではないだろうか。
自分を修めるとは、ただ我慢することではない。
自分の感情を理解する。
怒りに飲まれない。
欲望や承認欲求に振り回されない。
失敗を受け止める。
責任から逃げない。
間違えたら謝る。
自分の弱さを知り、自分の行動を整える。
そうした力である。
個を活かすとは、好き勝手に生きることではない。
自分の強みを知る。
自分の興味を育てる。
自分の考えを持つ。
自分の違和感を言葉にする。
周囲と違う視点を価値に変える。
そして、自分の個性を他者や社会に役立つ形で表現する。
そういうことである。
和を進化させるとは、ただ空気を読むことではない。
対立を避けるだけではない。
違いを消すことでもない。
おかしいことを黙って受け入れることでもない。
違う意見を聞く。
必要な違和感を言葉にする。
対話によって関係を作り直す。
古い和を守るだけでなく、より成熟した和へ更新していく。
そういう力である。
教育は、人を社会に押し込むためだけのものではない。
親や先生や会社にとって都合のよい人をつくるものでもない。
ただ従順な人間を育てるものでもない。
決められた正解を出せる人だけを評価するものでもない。
本来の教育とは、人が自分を整え、自分の力を活かし、他者と共により良い社会をつくる力を育てることではないか。
第12回では、教育の目的そのものを考え直していく。
社会に従う人を育てる教育から、自分を修め、個を活かし、和を進化させる人を育てる教育へ。
第1部の最後に、教育の目的をもう一度、私たち自身の言葉で定義し直してみたい。
これまでの教育は「社会に合わせる力」を重視してきた
これまでの日本の教育は、「社会に合わせる力」を重視してきた。
時間を守る。
先生の話を聞く。
決められたルールを守る。
周囲と同じように行動する。
集団の中で迷惑をかけない。
空気を読む。
協調性を持つ。
与えられた役割をきちんと果たす。
こうした力は、たしかに大切である。
人は一人では生きていけない。
家庭、学校、職場、地域、社会の中で、他者と関わりながら生きていく。
その中で、最低限のルールを守ることは必要である。
時間を守ることも、約束を守ることも、相手の立場を考えることも、社会生活の土台になる。
自分の都合だけで行動すれば、周囲に迷惑をかける。
自分の気分だけで約束を破れば、信頼を失う。
集団の中で好き勝手に振る舞えば、他者の自由や安心を壊してしまう。
だから、教育において「社会に合わせる力」を育てること自体は間違っていない。
問題は、それが教育の中心になりすぎたときである。
社会に合わせることばかりを求められると、子どもは「自分で考えること」よりも「周囲に合わせること」を優先するようになる。
なぜ、それをするのか。
本当にそれが正しいのか。
もっと良い方法はないのか。
自分はどう考えるのか。
自分は何に違和感を持っているのか。
そうした問いを持つ前に、「とにかく言われた通りにする」ことを覚えてしまう。
学校では、先生の指示を聞くことが求められる。
決められた時間に席に着くことが求められる。
決められた課題をこなすことが求められる。
決められた答えにたどり着くことが求められる。
決められた行事を、決められた形でこなすことが求められる。
もちろん、学校という集団を運営する以上、一定のルールは必要である。
しかし、あまりにも「揃えること」ばかりが重視されると、違いを出すことが難しくなる。
人と違う意見を言う。
疑問を投げかける。
納得できないことに違和感を示す。
自分なりの考えを持つ。
別のやり方を試してみる。
こうした行動が、「面倒な子」「空気を乱す子」「扱いにくい子」と見られてしまうことがある。
その結果、子どもは学ぶ。
疑問を持つより、黙っていた方がいい。
意見を言うより、合わせた方がいい。
挑戦するより、間違えない方がいい。
目立つより、無難な方がいい。
自分で考えるより、正解を待った方がいい。
これでは、教育は「考える力」を育てるものではなく、「従う力」を育てるものになってしまう。
社会に合わせる力は必要である。
しかし、社会に合わせることだけを教えると、社会そのものがおかしいときに声を上げられなくなる。
不合理なルールがあっても、従う。
理不尽な指導があっても、我慢する。
不正を見ても、黙る。
弱い立場の人が苦しんでいても、空気を読む。
上の人が間違っていても、指摘しない。
自分の違和感より、場の雰囲気を優先する。
これでは、社会は良くならない。
本来、教育は社会に適応する力だけでなく、社会をより良くする力も育てる必要がある。
ルールを守る力は大切である。
しかし、ルールの意味を考える力も必要である。
周囲に配慮する力は大切である。
しかし、周囲に合わせすぎて自分を失わない力も必要である。
集団の中で協力する力は大切である。
しかし、集団の空気が間違っているときに、違和感を言葉にする力も必要である。
これまでの教育は、前者を重視してきた。
守る。
従う。
合わせる。
乱さない。
迷惑をかけない。
決められたことをこなす。
その力によって、日本社会は一定の秩序を保ってきた面がある。
電車が時間通りに動く。
公共の場が比較的きれいに保たれる。
多くの人がルールを守る。
集団行動が得意である。
現場で丁寧な仕事をする。
与えられた役割を責任感を持って果たす。
これらは、日本社会の強みでもある。
だから、「社会に合わせる教育」をすべて否定する必要はない。
ただし、それだけではこれからの時代に足りない。
AIが仕事を変え、人口減少で社会の仕組みが変わり、価値観が多様化し、答えのない問題が増えていく時代に、ただ言われたことを守るだけでは対応できない。
必要なのは、ルールを守りながら、ルールの意味も考えられる人である。
周囲と協力しながら、自分の意見も持てる人である。
集団の中で生きながら、必要な違和感を言葉にできる人である。
社会に適応しながら、社会をより良く変えていける人である。
教育の目的を、ただ「社会に合わせる人を育てること」に置いてしまうと、子どもは従うことには慣れても、自分で考え、選び、動く力を育てにくい。
これから必要なのは、社会に合わせる力を土台にしながらも、それを超えていく教育である。
従うだけではなく、考える。
合わせるだけではなく、問い直す。
守るだけではなく、より良い形へ変えていく。
教育の目的を再定義するためには、まずここから見直す必要がある。
これまでの教育は、社会に合わせる力を育ててきた。
その価値を認めたうえで、これからはさらに、自分を修め、個を活かし、和を進化させる力へと広げていく必要がある。
「従順な人」は、安定した社会では役に立った
「社会に合わせる教育」は、決して無意味だったわけではない。
むしろ、かつての日本社会では、従順さや協調性には大きな価値があった。
高度経済成長の時代。
終身雇用が前提とされた時代。
年功序列が機能していた時代。
大企業に入り、長く勤めることが安定につながった時代。
社会全体が、同じ方向へ成長していた時代。
そのような時代には、決められたルールを守り、組織の中で協調し、与えられた役割を確実にこなす人材が求められた。
上司の指示を聞く。
決められた手順を守る。
時間通りに動く。
周囲と足並みをそろえる。
余計な波風を立てない。
自分の役割を黙々と果たす。
こうした人は、組織にとって扱いやすく、安定した戦力になった。
社会の仕組みが安定していれば、既存のルールに従うことは合理的である。
学校では、先生の言うことを聞く。
会社では、上司の指示に従う。
組織では、決められた役割を果たす。
地域では、周囲に合わせて行動する。
そうすることで、社会の秩序は保たれた。
多くの人が同じ方向を向き、同じように働き、同じように生活することで、社会全体が効率よく動いた面もある。
工場でも、会社でも、役所でも、学校でも、同じ手順を守り、同じ基準で動ける人は重宝された。
特に、ものづくりや大量生産の時代には、決められたことを正確にこなす力が重要だった。
個人が勝手に動くよりも、全体がそろって動く方が効率がよい。
一人ひとりが強い個性を出すよりも、手順を守る方が品質を安定させやすい。
現場で余計な判断をするよりも、決められた通りに動く方がミスを減らせる。
そういう場面はたしかにあった。
だから、従順さは、その時代の社会に合っていた。
我慢強い。
真面目である。
言われたことをきちんとやる。
集団の中で協調できる。
上司や先生の指示に従える。
自分勝手に動かない。
周囲に迷惑をかけない。
こうした性質は、社会を安定させる力だった。
そして、多くの家庭や学校も、その社会に合う人を育てようとしてきた。
よく勉強しなさい。
先生の言うことを聞きなさい。
遅刻しないようにしなさい。
人に迷惑をかけないようにしなさい。
我慢しなさい。
周りに合わせなさい。
会社に入ったら、上司の言うことを聞きなさい。
こうした言葉には、その時代なりの理由があった。
社会のレールが比較的はっきりしていたからである。
学校を出る。
会社に入る。
長く勤める。
年齢とともに給料が上がる。
家庭を持つ。
住宅を買う。
定年まで働く。
老後を迎える。
もちろん、すべての人がその通りに生きられたわけではない。
しかし、社会全体としては、ある程度共有された人生のモデルがあった。
そのモデルが機能している時代には、既存の社会にうまく適応することが、人生の安定につながりやすかった。
だから、教育もその方向へ向かった。
社会に適応できる人を育てる。
組織の中で働ける人を育てる。
上の指示を理解し、確実に実行できる人を育てる。
集団の和を乱さない人を育てる。
それは、過去の社会ではある程度合理的だった。
しかし、問題は、社会が変わったことである。
終身雇用は以前ほど当たり前ではなくなった。
年功序列も揺らいでいる。
一つの会社に入れば一生安心という時代ではない。
AIや自動化によって、言われたことをこなすだけの仕事は変化していく。
人口減少によって、地域も産業も維持の仕方を変えなければならない。
価値観も多様化し、同じ生き方を全員が選ぶ時代ではなくなっている。
つまり、社会のレールそのものが見えにくくなっている。
そのような時代に、従順さだけを育てても、子どもや若者は生き抜きにくい。
言われたことをやる力は必要である。
しかし、言われたことしかできなければ、変化に対応できない。
周囲に合わせる力は必要である。
しかし、周囲に合わせるだけでは、新しい道をつくれない。
ルールを守る力は必要である。
しかし、ルールそのものが古くなっているとき、それを問い直す力も必要である。
従順な人は、安定した社会では役に立った。
しかし、変化の激しい社会では、従順さだけでは足りない。
これから必要なのは、ただ従う人ではなく、考えて動ける人である。
自分の頭で問いを立てる。
状況を見て判断する。
間違いに気づいたら修正する。
古いルールを必要に応じて問い直す。
周囲と協力しながら、新しい形をつくる。
そうした力が必要になる。
だから、過去の教育をすべて否定する必要はない。
従順さや協調性が社会を支えてきた面は確かにある。
しかし、それを教育の最終目的にしてしまうと、これからの時代には合わなくなる。
社会が安定している時代には、社会に従う力が役に立った。
しかし、社会そのものが変化する時代には、社会を問い直し、必要なら変えていく力が必要になる。
教育の目的を再定義するとは、この変化を受け止めることでもある。
これから必要なのは「自分を修める力」である
これからの教育で、まず必要になるのは「自分を修める力」である。
自分を修めるというと、少し古い言葉に聞こえるかもしれない。
我慢すること。
感情を抑えること。
自分を殺すこと。
周囲に合わせること。
欲を持たないこと。
そのように受け取られることもある。
しかし、ここで言う「自分を修める」とは、ただ我慢することではない。
自分の感情を理解すること。
怒りに飲まれないこと。
欲望や承認欲求に振り回されないこと。
失敗を受け止めること。
責任から逃げないこと。
間違えたら謝ること。
自分の弱さを知ること。
そして、自分の行動を整えることである。
これは、知識や学力よりも土台になる力である。
どれだけ勉強ができても、自分の感情を扱えなければ、人を傷つけることがある。
どれだけ能力があっても、責任から逃げれば信頼を失う。
どれだけ成功しても、欲望に飲まれれば崩れていく。
どれだけ正しいことを知っていても、怒りに任せて人を攻撃すれば、その正しさは人を傷つける道具になってしまう。
だから、教育はまず、自分自身を扱える人を育てる必要がある。
たとえば、怒りについて考えてみる。
怒りそのものが悪いわけではない。
理不尽なことに怒る。
誰かが傷つけられていることに怒る。
不正に怒る。
大切なものを守るために怒る。
そうした怒りは必要である。
しかし、怒りに飲まれると、人は自分を見失う。
相手を責めすぎる。
言葉で傷つける。
正論で追い詰める。
立場の弱い人にぶつける。
相手を黙らせることが目的になる。
こうなると、怒りは問題を解決する力ではなく、人間関係を壊す力になってしまう。
自分を修めるとは、怒りを消すことではない。
怒りを感じたときに、なぜ怒っているのかを見つめること。
その怒りを、相手を壊すためではなく、問題を解決する方向へ使うこと。
感情に任せて言葉をぶつける前に、一度立ち止まること。
これが、自分を修める力である。
欲望についても同じである。
人には欲がある。
認められたい。
勝ちたい。
お金がほしい。
有名になりたい。
人より上に立ちたい。
楽をしたい。
損をしたくない。
こうした欲望を完全になくすことはできない。
むしろ、欲があるから努力できる面もある。
成長したい、評価されたい、豊かになりたいという気持ちは、人を前に進ませる力にもなる。
問題は、欲望に支配されることである。
承認欲求のために人を傷つける。
お金のために不正をする。
評価のために嘘をつく。
勝つために相手を踏み台にする。
自分をよく見せるために、都合の悪いことを隠す。
こうなると、欲望は自分を成長させる力ではなく、自分を壊す力になる。
自分を修めるとは、欲をなくすことではない。
欲望を見つめること。
自分が何に動かされているのかを知ること。
その欲が、人を傷つける方向へ向かっていないかを点検すること。
欲望を、自分と周囲を壊さない形で扱うこと。
これが必要である。
失敗への向き合い方も、自分を修める力の一つである。
人は誰でも失敗する。
勉強で失敗する。
仕事で失敗する。
人間関係で失敗する。
判断を間違える。
言いすぎる。
約束を守れないことがある。
自分の弱さが出てしまうことがある。
大切なのは、失敗しないことではない。
失敗したときに、どう向き合うかである。
ごまかすのか。
隠すのか。
誰かのせいにするのか。
言い訳を重ねるのか。
なかったことにするのか。
それとも、認めるのか。
謝るのか。
原因を考えるのか。
次にどうするかを考えるのか。
同じ失敗を繰り返さないように行動を変えるのか。
ここに、その人の成熟が出る。
自分を修める力がない人は、失敗を受け止められない。
自分の非を認めることを負けだと感じる。
謝ることを恥だと思う。
責任を取ることを損だと考える。
だから、失敗を隠し、言い訳し、他人に押しつける。
しかし、それでは信頼は育たない。
教育で育てるべきなのは、失敗しない人ではなく、失敗から立て直せる人である。
そのためには、自分の弱さを認める力が必要である。
自分は完璧ではない。
感情的になることがある。
欲に流されることがある。
逃げたくなることがある。
謝りたくないことがある。
人を傷つけてしまうことがある。
そうした弱さを知っている人は、自分を過信しない。
だから、立ち止まることができる。
誰かに相談できる。
間違えたときに認められる。
必要なら謝ることができる。
自分を整え直すことができる。
自分を修める力は、社会に従うための力ではない。
むしろ、自分の内側に振り回されず、自分の意思で生きるための力である。
怒りに飲まれない。
欲望に支配されない。
承認欲求に振り回されない。
失敗から逃げない。
責任を他人に押しつけない。
弱い立場の人を傷つけない。
こうした力があるから、人は自分の個を活かすことができる。
自分を修める力がなければ、個性はわがままになる。
能力は支配の道具になる。
正しさは攻撃になる。
自由は他者を傷つけるものになる。
だから、個を活かす前に、自分を修める力が必要なのである。
教育の目的を再定義するなら、まずここから始めなければならない。
子どもをただ従順にするのではない。
子どもをただ競争に勝たせるのでもない。
子どもをただ知識で満たすのでもない。
自分の感情、欲望、弱さ、責任、失敗と向き合い、自分の行動を整えられる人に育てる。
それが、これからの教育の土台になる。
「個を活かす」とは、好き勝手に生きることではない
これからの教育では、「個を活かす」ことが重要になる。
これまでの教育は、どちらかといえば、個を抑える方向に働きやすかった。
周囲に合わせる。
集団からはみ出さない。
同じ行動をする。
同じ答えを出す。
先生の指示に従う。
空気を読む。
迷惑をかけない。
こうした力は、社会生活の中で必要である。
しかし、それが強くなりすぎると、子どもは自分の個を出すことを怖がるようになる。
人と違うことを言うのが怖い。
自分の意見を出すのが怖い。
間違えるのが怖い。
目立つのが怖い。
周囲と違う興味を持つことが怖い。
自分らしさを出すより、無難でいる方が安全だと思う。
そうなってしまうと、教育は人を育てるのではなく、人を小さくまとめるものになってしまう。
これからの時代に必要なのは、一人ひとりの個を消す教育ではない。
一人ひとりが、自分の強みや興味や考えを知り、それを社会の中で活かせるようにする教育である。
ただし、ここで注意しなければならないことがある。
「個を活かす」とは、好き勝手に生きることではない。
自分がやりたいことだけをする。
自分の気持ちだけを優先する。
周囲の迷惑を考えない。
ルールを無視する。
他人を傷つけても、自分らしさだと言い張る。
協調性を捨てる。
これは、個を活かすことではない。
それは、ただのわがままである。
本当の意味で個を活かすとは、自分の違いや強みを、他者や社会の中で意味のある形にすることである。
自分は何が得意なのか。
何に興味があるのか。
どんなことに違和感を持つのか。
どんな場面で力を発揮できるのか。
自分の考えは、どこで誰かの役に立つのか。
自分の違いは、どのように価値になるのか。
そこを考えることが、個を活かす第一歩である。
たとえば、周囲と違う視点を持っている子がいる。
みんなが当たり前だと思っていることに疑問を持つ。
同じ説明を聞いても、別の角度から考える。
決められたやり方ではなく、違う方法を試したがる。
集団を管理する側から見ると、少し扱いにくいかもしれない。
しかし、その違和感や視点の違いは、将来の創造性につながることがある。
新しいアイデアは、いつも「みんなと同じ」から生まれるわけではない。
むしろ、当たり前を疑う力から生まれることがある。
だから、教育では、その違いをただ押さえつけるのではなく、どう活かすかを考える必要がある。
ただし、違う意見を持つことと、周囲を傷つけることは違う。
自分の考えを持つことは大切である。
しかし、自分の考えを押しつけてよいわけではない。
人と違う視点を持つことは価値になる。
しかし、他者を見下してよいわけではない。
自由に考えることは必要である。
しかし、他者の自由や安心を壊してよいわけではない。
ここを教えることが、個を活かす教育には欠かせない。
個性とは、ただ外に出せばよいものではない。
磨き、整え、社会の中で使える形にしていく必要がある。
声が大きいことが個性なら、その声を誰かを黙らせるためではなく、必要なことを伝えるために使う。
こだわりが強いことが個性なら、そのこだわりを人に押しつけるのではなく、質の高い仕事や表現に変える。
感受性が強いことが個性なら、その感受性を傷つきやすさだけで終わらせず、人の痛みに気づく力にする。
負けず嫌いなことが個性なら、他人を潰す競争ではなく、自分を高める努力に変える。
個を活かすとは、自分の性質をそのまま放置することではない。
自分の性質を理解し、どう使えば自分も周囲も良くなるのかを考えることである。
ここでも、「自分を修める力」が必要になる。
自分を修める力がなければ、個性は暴走する。
能力があっても、感情を扱えなければ人を傷つける。
発想力があっても、責任感がなければ周囲を振り回す。
強い個性があっても、他者への配慮がなければ孤立する。
自己主張ができても、対話ができなければ対立だけが残る。
だから、個を活かす教育は、自分勝手を許す教育ではない。
むしろ、自分の個を社会の中で活かすために、自分を整える教育である。
これからの時代は、同じ答えを出せる人だけでは足りない。
AIが多くの知識を扱い、定型的な作業を代替していく時代には、人間には問いを立てる力や、違いを価値に変える力が求められる。
何に疑問を持つのか。
どんな課題に気づくのか。
自分ならどう考えるのか。
他の人とは違う視点を、どう役立てるのか。
そこに、人間の個が出る。
ただし、個は一人で完結するものではない。
自分の個性は、他者との関係の中で初めて意味を持つ。
自分の強みが誰かを助ける。
自分の視点がチームの盲点を補う。
自分の興味が新しい価値を生む。
自分の違いが、集団の可能性を広げる。
そうなったとき、個は本当の意味で活きる。
教育が目指すべきなのは、全員を同じ形にそろえることではない。
一人ひとりが自分の個を知り、それを他者とぶつけるのではなく、他者と組み合わせながら活かしていく力を育てることである。
個を活かすとは、好き勝手に生きることではない。
自分を知り、自分を整え、自分の違いを社会の中で価値に変えることである。
その力を育てることが、これからの教育には必要である。
「和を守る」から「和を進化させる」へ
日本社会では、昔から「和」が重視されてきた。
争わない。
空気を読む。
周囲に合わせる。
迷惑をかけない。
対立を避ける。
相手の気持ちを察する。
集団の中で調和を保つ。
こうした感覚は、日本社会の大きな特徴でもある。
もちろん、和を大切にすること自体は悪いことではない。
人は一人では生きていけない。
家庭でも、学校でも、職場でも、地域でも、他者と関わりながら生きている。
その中で、自分の主張だけを押し通せば、関係は壊れてしまう。
相手の立場を想像する力や、周囲への配慮は必要である。
和は、人と人が共に生きるための知恵でもある。
相手の話を聞く。
自分の言葉が相手にどう届くかを考える。
場の空気を感じる。
衝突を避けるために言い方を工夫する。
自分の都合だけで動かない。
こうした力は、社会生活において大切である。
しかし、問題は、和を守ることが目的化したときである。
本来、和は人と人がより良く共に生きるためのものである。
ところが、和を乱さないことばかりが重視されると、逆に人を苦しめることがある。
おかしいことをおかしいと言えない。
不正を見ても黙る。
理不尽なことに違和感を持っても飲み込む。
弱い立場の人が我慢する。
新しい意見がつぶされる。
表面的な平和のために、本当の問題が放置される。
これでは、和ではなく沈黙である。
たとえば、学校でいじめが起きているとする。
本当は誰かが「それはおかしい」と言うべきである。
しかし、「空気を乱したくない」「自分が目立ちたくない」「巻き込まれたくない」と考えて、周囲が黙ってしまうことがある。
その場は静かに見えるかもしれない。
しかし、それは本当の和ではない。
誰かが苦しんでいるのに、周囲が見て見ぬふりをしているだけである。
職場でも同じである。
上司の言うことがおかしい。
現場に無理な負担がかかっている。
不正に近いことが行われている。
弱い立場の人にだけ責任が押しつけられている。
それでも、「波風を立てない方がいい」「空気を読め」「余計なことを言うな」と黙らせる。
これも、本当の和ではない。
表面上はまとまっているように見えても、内側では不満や不信が積み重なっている。
そして、問題はより大きくなっていく。
だから、これから必要なのは、ただ和を守ることではない。
和を進化させることである。
和を進化させるとは、対立を避けることではない。
必要な対立を、対話に変えることである。
違う意見を消すのではなく、聞く。
違和感を黙らせるのではなく、言葉にする。
少数派を排除するのではなく、その視点から学ぶ。
問題を隠すのではなく、より良い関係をつくるために向き合う。
これが、進化した和である。
古い和は、ときに「同じであること」を求める。
同じ考え。
同じ行動。
同じ価値観。
同じ正解。
同じ空気。
しかし、これからの社会では、全員が同じであることは難しい。
価値観は多様化している。
働き方も違う。
家族の形も違う。
得意なことも違う。
感じ方も違う。
生き方も違う。
その中で、全員を同じ形にそろえようとすれば、必ず誰かが苦しくなる。
だから、これからの和は、違いを消す和ではなく、違いを活かす和でなければならない。
違う意見があるから、見落としていた問題に気づける。
違う経験があるから、別の解決策が見える。
違う強みがあるから、チームとしてできることが広がる。
違う感性があるから、新しい価値が生まれる。
和とは、全員を同じにすることではない。
違う人たちが、互いを壊さず、より良い形で力を合わせることである。
そのためには、教育も変わる必要がある。
「空気を読みなさい」だけでは足りない。
「周りに合わせなさい」だけでも足りない。
「迷惑をかけるな」だけでも足りない。
必要なのは、こうした問いである。
なぜ、そう思ったのか。
相手はどう感じているのか。
違う意見をどう受け止めるのか。
この場の空気は、本当に誰にとっても安心なのか。
黙っている人はいないか。
弱い立場の人だけが我慢していないか。
どうすれば、より良い関係に変えられるのか。
このように、和をただ守るのではなく、問い直す力が必要になる。
もちろん、何でも対立すればよいわけではない。
自分の意見を言うことと、相手を攻撃することは違う。
違和感を伝えることと、場を壊すことは違う。
古いものを問い直すことと、すべてを否定することは違う。
大切なのは、壊すために声を上げるのではなく、より良い和をつくるために声を上げることである。
そのためには、自分を修める力も必要である。
怒りに任せて言えば、相手は防御的になる。
正論で追い詰めれば、対話は止まる。
自分の意見だけを押し通せば、ただの対立になる。
だから、和を進化させるには、自分の感情を整えながら、必要なことを言葉にする力が必要である。
そして、個を活かす力も必要になる。
一人ひとりが自分の考えを持つ。
違和感を言葉にする。
自分の強みや視点を出す。
ただし、それを相手に押しつけるのではなく、場をより良くするために使う。
こうして初めて、個は和を壊すものではなく、和を進化させる力になる。
これからの教育が目指すべきなのは、ただ空気に従う人を育てることではない。
空気を感じながらも、必要なときには問い直せる人。
周囲と協力しながらも、自分の意見を持てる人。
対立を恐れず、それを対話に変えられる人。
違いを排除するのではなく、活かせる人。
そういう人を育てることである。
和を守ることには価値がある。
しかし、守るだけでは、古い問題まで守ってしまうことがある。
これから必要なのは、和を壊すことではなく、和を進化させることである。
違いを消す和から、違いを活かす和へ。
沈黙による和から、対話による和へ。
空気に従う和から、より良い関係をつくる和へ。
教育は、その力を育てるものでなければならない。
社会に従う人ではなく、社会を良くする人を育てる
教育は、社会に従う人を育てるためだけにあるのではない。
もちろん、社会の中で生きる以上、ルールを守ることは大切である。
約束を守る。
時間を守る。
他者に迷惑をかけない。
公共の場を大切にする。
人の権利を尊重する。
決められた役割を果たす。
こうした力は、社会を成り立たせる土台である。
もし、一人ひとりが自分の都合だけで動けば、社会はすぐに壊れてしまう。
信号を守らない。
約束を守らない。
仕事の責任を果たさない。
他者の迷惑を考えない。
自分だけが得をすればよいと考える。
そんな人ばかりになれば、安心して暮らすことはできない。
だから、教育において、社会のルールを教えることは必要である。
他者と協力する力を育てることも必要である。
自分の行動が周囲に与える影響を考えさせることも必要である。
しかし、ここで立ち止まって考えなければならない。
社会のルールは、いつも正しいのだろうか。
社会の空気は、いつも人を幸せにするのだろうか。
組織の常識は、いつも守るべきものなのだろうか。
上の人が言っていることは、いつも正しいのだろうか。
答えは、そうではない。
社会そのものが間違っている場合もある。
古い慣習。
理不尽な上下関係。
不正を見逃す空気。
弱い立場の人に負担を押しつける仕組み。
誰も疑わない非効率。
変化を拒む組織文化。
声を上げた人が面倒な人として扱われる空気。
こうしたものは、どの社会にも起こりうる。
そのときに、ただ社会に従うだけでは、問題は変わらない。
むしろ、問題を温存してしまう。
たとえば、学校で理不尽な校則があるとする。
本当に必要なルールなら守るべきである。
安全や秩序のために必要な決まりもある。
しかし、そのルールが何のためにあるのかわからない。
誰かを必要以上に縛っている。
時代に合わなくなっている。
子どもの尊厳や主体性を損なっている。
それでも、「ルールだから守りなさい」で終わってしまえば、子どもは考える力を失っていく。
大切なのは、ルールを破ることではない。
ルールの意味を考えることである。
なぜ、このルールがあるのか。
誰のためのルールなのか。
今も必要なのか。
変えるなら、どう変えるべきなのか。
変えるためには、どのように話し合えばよいのか。
こう考えることが、社会を良くする力につながる。
職場でも同じである。
昔からこうしている。
上が決めたことだから仕方ない。
誰も変えようとしない。
現場は困っているが、声を上げても無駄だ。
おかしいと思っても、黙っていた方が安全だ。
こうした空気がある職場では、人は次第に考えなくなる。
問題を見つけても、見なかったことにする。
改善案があっても、言わない。
理不尽なことがあっても、我慢する。
責任を取るより、空気に合わせることを優先する。
このような状態では、社会も組織も良くならない。
社会に従う人は、秩序を守ることはできる。
しかし、社会を良くする人は、秩序の中にある問題にも気づく。
そして、ただ壊すのではなく、より良い形を考える。
ここが大切である。
社会を良くするとは、反抗することではない。
何でも否定することでもない。
古いものをすべて壊すことでもない。
自分の意見を押し通すことでもない。
社会を良くするとは、今ある仕組みの中で、何を守り、何を変えるべきかを考えることである。
守るべきルールは守る。
大切な文化は受け継ぐ。
人を支えている仕組みは大事にする。
一方で、時代に合わなくなったものは問い直す。
人を苦しめているものは変える。
声を上げにくい人の立場にも目を向ける。
これが、社会を良くする姿勢である。
そのためには、教育で「従うこと」だけを教えていては足りない。
問いを持つ力が必要である。
なぜ、これはこうなっているのか。
誰が困っているのか。
本当にこのやり方でよいのか。
別の方法はないのか。
変えるとしたら、誰と話し合う必要があるのか。
どうすれば、より多くの人が納得できる形になるのか。
こうした問いを立てる力を、教育の中で育てる必要がある。
そして、問いを持つだけでなく、対話する力も必要である。
社会を良くするには、一人で正しさを叫ぶだけでは足りない。
相手の意見を聞く。
反対意見も受け止める。
感情的に攻撃しない。
自分の考えをわかりやすく伝える。
どこで折り合えるかを考える。
小さな改善から始める。
こうした力がなければ、せっかくの問題意識も対立だけで終わってしまう。
社会を良くする人とは、強い言葉で相手を倒す人ではない。
問題に気づき、それを言葉にし、周囲と対話しながら、少しでも良い方向へ変えていける人である。
ここでも、「自分を修める力」「個を活かす力」「和を進化させる力」がつながってくる。
自分を修める力があるから、怒りに飲まれずに問題を伝えられる。
個を活かす力があるから、自分の視点や強みを改善に使える。
和を進化させる力があるから、対立をただの衝突で終わらせず、より良い関係へ変えられる。
教育の目的は、社会に無条件で従う人を育てることではない。
社会の中で生きる力を育てながら、同時に社会をより良くする力を育てることである。
社会に適応することは必要である。
しかし、適応するだけでは不十分である。
社会に従うだけの人が増えれば、社会は安定するかもしれない。
しかし、その社会が間違っているときには、誰も変えられなくなる。
これから必要なのは、社会に従う人ではなく、社会を良くする人である。
ルールを守りながら、ルールの意味を考える人。
周囲と協力しながら、おかしいことには違和感を持てる人。
古い仕組みを否定するだけでなく、より良い形へ更新できる人。
自分のためだけでなく、次の世代のために社会を少しでも良くしようとする人。
そうした人を育てることが、これからの教育には求められている。
教育とは「自立」と「共生」を両立させること
教育で育てるべきなのは、孤立した個人ではない。
同時に、集団に埋もれる人でもない。
必要なのは、「自立」と「共生」を両立できる人である。
自立とは、自分の足で立つことである。
自分の考えを持つ。
自分で判断する。
自分の行動に責任を持つ。
自分の感情を扱う。
自分の強みを知る。
自分の人生を他人任せにしない。
これが、自立である。
ただ言われたことをやるだけでは、自立とは言えない。
誰かの正解を待つだけでも、自立とは言えない。
周囲に合わせることでしか安心できない状態も、自立とは言えない。
自立した人は、自分で考える。
何が大切なのか。
何に違和感があるのか。
どの道を選ぶのか。
どの責任を引き受けるのか。
どのように生きたいのか。
そうした問いを、自分の中に持っている。
しかし、自立だけを強調しすぎると、別の問題が起きる。
自分の考えだけを正しいと思う。
自分の自由だけを優先する。
他者の立場を考えない。
周囲に配慮しない。
助け合うことを弱さだと思う。
誰にも頼らず、誰も頼らせない。
これでは、自立ではなく孤立である。
人は一人では生きていけない。
どれだけ能力があっても、誰かとの関係の中で生きている。
家庭、学校、職場、地域、社会。
そこには必ず他者がいる。
だから、教育には共生の視点も必要である。
共生とは、他者と共に生きることである。
相手の立場を想像する。
違う意見を聞く。
助けを求める。
誰かを助ける。
自分の自由が他者を傷つけていないかを考える。
自分の強みを、誰かのためにも使う。
違いを排除するのではなく、共に生きる形を探す。
これが、共生である。
共生は、単に仲良くすることではない。
意見の違いがある。
価値観の違いがある。
立場の違いがある。
得意不得意の違いがある。
見えている世界の違いがある。
その違いを前提にして、それでも共に生きる方法を探すことである。
だから、共生には対話が必要になる。
自分の考えを伝える。
相手の考えを聞く。
わかり合えない部分を急いで消そうとしない。
違いを攻撃に変えない。
どこで折り合えるかを探す。
必要なら、関係の形を作り直す。
これは、簡単なことではない。
しかし、これからの教育には、この力が必要である。
自立だけでは足りない。
共生だけでも足りない。
自立だけを重視すると、自己中心に流れやすい。
自分が正しい。
自分の自由が一番大事。
自分の成果がすべて。
他者への配慮は面倒。
助け合いは効率が悪い。
そうなれば、個は強く見えても、人間関係は壊れていく。
一方で、共生だけを重視すると、同調に流れやすい。
周囲に合わせる。
自分の意見を飲み込む。
違和感を言わない。
対立を避ける。
自分より場の空気を優先する。
弱い立場の人が我慢する。
そうなれば、表面上はまとまっていても、一人ひとりの力は失われていく。
だから、教育には両方が必要である。
自分で立つ力。
他者と共に生きる力。
この二つをつなぐことが、これからの教育の大きな目的になる。
たとえば、学校で子どもに意見を言わせるとする。
ただ「自分の意見を言いなさい」と言うだけでは足りない。
自分の意見を持つことは大切である。
しかし、その意見が他者を傷つける言葉になってはいけない。
自分の主張を通すだけでなく、相手の意見を聞く必要もある。
自分と違う考えに出会ったとき、すぐに否定するのではなく、なぜそう考えるのかを知ろうとする必要がある。
つまり、意見を持つ力と、対話する力を同時に育てる必要がある。
これが、自立と共生の両立である。
家庭でも同じである。
子どもが自分で決めることは大切である。
何を学びたいのか。
何に挑戦したいのか。
どんな友人関係を築きたいのか。
どんな進路を考えるのか。
親がすべて決めてしまえば、子どもは自立しにくくなる。
しかし、何でも自由にさせればよいわけでもない。
自由には責任がある。
自分の選択は、周囲にも影響する。
家族の中で生きる以上、話し合いも必要になる。
自分の希望と、他者への配慮をどう両立するかを学ぶ必要がある。
ここでも、自立と共生の両方が必要になる。
職場でも同じである。
これからの時代、言われたことだけをこなす人ではなく、自分で考え、動ける人が求められる。
しかし、自分で動けるだけでは不十分である。
チームで働く力。
他者の仕事を理解する力。
情報を共有する力。
助け合う力。
意見の違いを調整する力。
組織全体を良くする視点。
こうした共生の力がなければ、個人の能力はチームの力にならない。
自立した人が、共生できる。
これが理想である。
自分の考えを持ちながら、他者の考えも聞ける。
自分の強みを活かしながら、他者の強みも活かせる。
自分の自由を大切にしながら、他者の尊厳も大切にできる。
自分で判断しながら、必要なときには相談できる。
一人で立ちながら、誰かと協力できる。
こうした人を育てることが、これからの教育には必要である。
教育の目的を「社会に従う人を育てること」と考えると、共生はただの同調になりやすい。
周りに合わせなさい。
空気を読みなさい。
迷惑をかけないようにしなさい。
余計なことを言わないようにしなさい。
しかし、教育の目的を「自分を修め、個を活かし、和を進化させる人を育てること」と考えるなら、共生の意味は変わる。
それは、ただ合わせることではない。
自分を持った人間同士が、違いを活かしながら、より良い関係をつくることである。
自立と共生は、対立するものではない。
本当の自立は、他者を無視することではない。
本当の共生は、自分を消すことではない。
自分で立ち、他者と共に生きる。
この両方を育てることが、教育の大切な目的である。
教育の目的を変えれば、教え方も変わる
教育の目的が変われば、教え方も変わる。
もし教育の目的を、「社会に従う人を育てること」と考えるなら、教え方は命令と管理に近くなる。
静かにしなさい。
言われた通りにしなさい。
間違えないようにしなさい。
周りに合わせなさい。
余計なことを言わないようにしなさい。
勝手なことをしないようにしなさい。
決められたことを、決められた通りにやりなさい。
このような指導になる。
もちろん、子どもに最低限のルールを教えることは必要である。
授業中に人の話を聞く。
約束を守る。
相手を傷つけない。
公共の場での振る舞いを学ぶ。
やるべきことに取り組む。
集団の中で責任を果たす。
こうしたことを教えない教育は、教育とは言えない。
しかし、命令と管理だけでは、人は育ちにくい。
その場では静かにできるかもしれない。
言われたことはやるかもしれない。
怒られないように振る舞うかもしれない。
大人の前では問題を起こさないかもしれない。
しかし、それは本当に成長しているのだろうか。
大人に見られていない場所でも、自分で考えられるのか。
誰かに命令されなくても、必要な行動を選べるのか。
失敗したときに、自分で振り返れるのか。
人を傷つけたときに、自分から謝れるのか。
問題が起きたときに、原因を考え、次の行動を変えられるのか。
ここが重要である。
教育の目的が、「自分を修め、個を活かし、和を進化させる人を育てること」なら、教え方は変わらなければならない。
必要なのは、ただ命令することではない。
問いを与えること。
対話すること。
振り返らせること。
自分で考えさせること。
失敗を学びに変えること。
自分の感情や行動に気づかせること。
他者との関係を考えさせること。
そうした教育が必要になる。
たとえば、子どもが友達に強い言葉をぶつけたとする。
命令と管理の教育なら、こうなる。
「そんなことを言ってはいけません」
「謝りなさい」
「もう二度と言わないようにしなさい」
もちろん、相手を傷つける言葉を止めることは必要である。
謝らせることが必要な場面もある。
しかし、それだけで終わると、子どもは深く学ばない。
怒られたから謝る。
大人に言われたから謝る。
その場を終わらせるために謝る。
それでは、同じことを繰り返す可能性がある。
大切なのは、その後である。
なぜ、その言葉を言ったのか。
そのとき、自分はどんな気持ちだったのか。
相手はどう感じたと思うか。
別の言い方はできなかったのか。
次に同じような気持ちになったら、どうすればよいのか。
こうした問いを通じて、子どもは自分の感情と行動を結びつけて考えるようになる。
これが、自分を修める教育である。
勉強でも同じである。
ただ正解を覚えさせるだけなら、教育は知識の詰め込みになる。
もちろん、基礎知識は必要である。
漢字も、計算も、歴史も、科学も、言葉の力も、学ぶ意味がある。
しかし、知識を覚えるだけでは足りない。
なぜ、そうなるのか。
どうしてこの考え方が必要なのか。
別の見方はできないのか。
自分の生活や社会とどうつながっているのか。
この知識を使って、何を考えられるのか。
こうした問いがあると、学びは「覚えること」から「考えること」へ変わる。
個を活かす教育でも、教え方は変わる。
全員に同じやり方だけを求めるのではなく、一人ひとりの違いを見る必要がある。
何に興味を持っているのか。
どこで集中力が出るのか。
どんな場面で力を発揮するのか。
何につまずいているのか。
どんな言葉をかけると動き出せるのか。
どんな役割なら自信を持てるのか。
子どもによって、伸びる入口は違う。
同じ説明で理解できる子もいれば、具体例が必要な子もいる。
一人で考える方が力を出せる子もいれば、誰かと話すことで考えが深まる子もいる。
すぐに発言できる子もいれば、時間をかけて言葉にする子もいる。
個を活かす教育とは、全員を特別扱いすることではない。
一人ひとりの違いを見て、その子が自分の力を出せる入口を探すことである。
和を進化させる教育でも、教え方は変わる。
ただ「仲良くしなさい」と言うだけでは足りない。
仲良くできない理由があるかもしれない。
意見の違いがあるかもしれない。
誰かが我慢しているかもしれない。
表面上は平和でも、内側に不満がたまっているかもしれない。
だから必要なのは、対話である。
何が嫌だったのか。
どこで誤解が生まれたのか。
相手は何を大切にしていたのか。
自分は何を伝えたかったのか。
どうすれば、次はもう少し良い関係にできるのか。
こうした話し合いを通じて、子どもは人間関係を学ぶ。
対立を避けるのではなく、対立を対話に変える。
違いを消すのではなく、違いを扱う。
誰か一人に我慢させるのではなく、関係を作り直す。
これが、和を進化させる教育である。
このような教育では、大人の役割も変わる。
大人は、ただ命令する人ではなくなる。
ただ正解を与える人でもなくなる。
ただ管理する人でもなくなる。
大人は、問いを立てる人になる。
子どもの考えを引き出す人になる。
失敗を学びに変える人になる。
感情を整理する手助けをする人になる。
子どもが自分で気づくための伴走者になる。
もちろん、すべてを子ども任せにするわけではない。
危険なことは止める必要がある。
人を傷つける行動は注意しなければならない。
守るべきルールは教えなければならない。
未熟な子どもに、すべての判断を任せることはできない。
しかし、止めるだけで終わらない。
注意するだけで終わらない。
怒るだけで終わらない。
その後に、考えさせる。
振り返らせる。
次の行動を選ばせる。
ここまで含めて教育である。
教育の目的を変えれば、教え方も変わる。
社会に従う人を育てる教育なら、命令と管理が中心になる。
自分を修め、個を活かし、和を進化させる人を育てる教育なら、問いと対話と振り返りが中心になる。
言われた通りにできる子を育てるのか。
自分で考え、選び、責任を持てる子を育てるのか。
周囲に合わせる子を育てるのか。
他者と共に、より良い関係をつくれる子を育てるのか。
教育の目的を問い直すことは、教え方を問い直すことでもある。
そして、教え方を変えることは、大人自身の姿勢を変えることでもある。
第1部では、家庭の教育力、大人の未成熟、大人の学び直し、模範となる大人が見えにくい時代、反面教師から学ぶ教育について考えてきた。
そのすべては、ここにつながっている。
教育は、子どもだけを変えるものではない。
大人自身を問い直すものでもある。
家庭、学校、職場、社会のあり方を問い直すものでもある。
そして、未来の社会をどうつくるのかを考える営みでもある。
教育の目的は、社会に人を合わせることだけではない。
これからの社会をより良くつくっていく人を育てること。
そのために、自分を修め、個を活かし、和を進化させる。
第12回では、そのように教育の目的を再定義しておきたい。
第2部へ――過去の教育思想を、現代に読み替える
かつて日本には、修身という教育があった。
教育勅語という思想もあった。
仏教の教えも、人の心の整え方に大きな影響を与えてきた。
武士道や先人の思想の中にも、責任、礼節、忍耐、恥、誠、和、克己といった考え方がある。
もちろん、それらをそのまま現代に戻せばよいわけではない。
時代背景も違う。
価値観も違う。
家族の形も、働き方も、社会の仕組みも変わっている。
過去の思想の中には、現代の人権感覚や多様性の考え方とは合わない部分もある。
だから必要なのは、過去への回帰ではない。
過去から学び、現代に読み替えることである。
修身からは、自分を整える力を学ぶ。
教育勅語からは、国家に従う思想ではなく、公共性や責任のあり方を問い直す。
仏教からは、欲望、執着、怒り、不安との向き合い方を学ぶ。
先人の思想からは、個人の生き方と社会への責任を考える。
第2部では、こうした過去の教育思想を、現代の教育にどう活かせるのかを考えていく。
次回からは、第2部「過去から学ぶ」として、修身・教育勅語・仏教・先人の思想を現代に読み替えていく。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回もお楽しみに![]()



