武道場の武徳殿

天守台
甲府に行きました。盆地で暑い。甲府駅から歩いて5分のところに甲府城があります。別名は舞鶴城。
天守台と武道場?かな。
現在城は整備中。本丸鉄門を復元中。
二枚だけしか撮らなかった。なんか拍子抜け。
因みに甲府城は徳川氏の城。有名なのは甲府宰相徳川綱重と六代将軍徳川家宣(甲府宰相時は綱豊)
西の丸に入り綱吉の後をついで、家宣になってからは(つまり次期将軍)柳沢吉保が川越より甲府に入る。
石高は25万石⇒15万石へ
甲府の発展は柳沢吉保のお陰で、いまでも柳沢氏は名君として慕われています。
この時期に柳沢は松平の称号を賜り、松平甲斐守吉保。官職も従四位下(4品)侍従、後に近衛少将になります。
甲斐府中(甲府の由来)を息子の柳沢吉里(松平美濃守吉里)が継いですぐに大和郡山に石高は変わらず移る。以後甲府は幕府直轄になり、甲府城代と勤番が置かれただけ。城は明治に廃城になり破壊された。
石垣のみしか残らず。
元々天守台には天守閣を建てずにそのまま。三階櫓が天守閣代用。天守台にはなにもない。屋敷が本丸にあっただけでした。
元々は櫓が
に門が
。近くに武田神社(躑躅か崎館跡)あり。
甲斐府中は武田信玄により開発され、柳沢吉保により発展したと言ってもいいのではないかなと個人的には思います。
柳沢吉保は幕府閣僚で老中のち筆頭、大老に次ぐ准大老みたいな役職で溜まり間詰め(吉保一代のみ)だった。中将を拝命してないから大老職ではありません。
正4位中将を官職とするのが大老の条件。幕府から内定すれば大老にはなれます。
少将で終わったので、大老ではない。また多分固辞したかもしれない。
現役老中で引退してるからです。
イメージは悪者みたいだけど、実際は幕府では一番信用があり、名老中。
綱吉に続いて家宣時にも幕府閣僚。しかし、惜しまれながらすっぱり老中を退いた。
なんか徳川光圀と争ってるイメージが大きいが、実際はご三家であり、権限もなければ、意見を述べることはないが、光圀藩主引退を伝えたのは柳沢吉保(実際は将軍綱吉の上意を伝えただけらしい。)だったから水戸黄門で悪役扱いに。
格式があり、控えの間が違うから月番老中でないと、顔を合わすことはない。
元々は土屋氏とおなじ武田旧家臣。
だから甲府で歓迎された。
武田氏ゆかりの藩主だったからね。
受け入れやすかったみたいだ。
甲府城については以上です。