英廉は、動揺する孫娘を見やりながら、
昼間の咸安宮官学での出来事を思い出していた。
「英大人」
「英大人」
英廉が学校の正門をくぐろうとすると、侍衛らが次々と声をかける。
中庭に入ったところで、門の並びの部屋から人が飛び出してきた。
「英大人、これはまた突然のお越しで……」
振り返ると、李峰がねずみのように細く釣りあがった目に
愛想笑いをこめて立ってる。
学校には内務府から事務官が四人派遣されており、
彼はその責任者だった。
ちょんちょん、と数本しかないひげが
ねずみのそっくりなので、英廉はひそかに
――ねずみ男
と呼んでいた。
内務府は、成立当時より包衣を中心に構成されている。
この男も包衣出身であるからには、先祖は漢人のはずだが、
ツングース系の血が濃いのか、ひげが薄い。
長城の北から来た人々は体毛が薄く、すねも脇の下もつるつる、
ひげもぴょこっぴょこっと左右に数本ずつしかはえない者も多い。
いずれにしても、包衣は数代にもわたり長城の北で暮らしており、
複雑な歴史的背景で混血を繰り返してきた。
満人に強姦されて混血したものもいれば、
高麗人参の貿易を通して満人が富をなして都市に住み着いて漢語でしゃべり、
漢服を着るようになり、
しかるのちに「漢人」として再び征服された例もあるという。
……となれば、もう民族的な違いは自我の差であったり、
社会的な認証の差でしかなくなっている。
「子供らの意気のいい叫び声を聞いていると、
力が湧いてきて、ふらふらと寄ってしまうわい」
「……それはそれは」
心なしか膝をやや曲げて姿勢を低くしつつかしこまっていた李峰は、
やや訝しげに首をかしげた。
--本当にそれだけの用事ですかい
とでも言いたげだ。
目的もなしにふらりとやってきたのかといえば、
確かに完全にそうとも言い切れなかった。
心密かに孫娘の縁談相手を物色する下心があったのだから。
英廉はうなずきながら、李峰に案内され客庁(応接間)に入り、腰掛けた。
学校は「三進院」になっていた。
「三合院」を縦に三組重ねた形、
つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。
本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、
北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、
倉庫程度しか使い道がない。
このためにいっそのこと反対側に窓を開け、
前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。
つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、
これが「一院」九部屋、「三院」で合計二十七間の作りである。
咸安宮官学は三つの四合院を重ねた「三進院」作りであった。
正門から入った「一進院」は、
正面の南向き三間には孔子さまが鎮座まします祭祀堂である。
中国の伝統では、学問を身に着けるとは、
儒教的な礼節を身に着けることであり、
学生たちは勉強に入る前に孔子像に跪いた後、授業に入った。
東西の部屋は、それぞれ先生らの控え室であったり、
供の者の控え室であった。
学生は十歳から入学するため、
城内各地から馬に乗って通学するには単独ではいけないため、
お供の者をつけることが許されているのだ。
英廉はぶらぶらと手を後ろに組みながら、
最初の中庭の中を歩き回る。
正門から入ってすぐの部分が簡単な応接間になっていたが、
英廉はすぐにそこに入らず、
中庭と四方の家屋をつないでいる
屋根つきの渡り廊下をゆったりと歩いていった。
ふと伴の者の控え室の前に差し掛かる。
英廉は何気なく中に入った。
むっと汗と垢、土ぼこりのにおいが襲い掛かる。
新陳代謝の塊のような青壮年の男たちの放つ強烈なにおいだ。
少年たちのお供をするとなれば、
坊ちゃまを馬に乗せて自分は歩いてそれを引いたり、
あるいは驢馬車を御するにしても、
共に乗馬で伴うにしても、体を使った肉体労働である。
用心棒の役割も果たせなければならないから、
壮健で腕力に自信ある連中ばかりだろう。
そんなむつくけき男どもが狭い部屋に集められれば、
自然とそれを代表する異臭となるわけである。
そもそもこの時代の中国北方の習慣では、
めったに風呂に入ることもなかったし、
ましてや冬の衣服を頻繁に着替える習慣もない。
ころころもふもふに膨らんだ綿入れの防寒着の袖のすそは、
垢と鼻水とわけのわからない生活汚れで黒光りしているのが普通。
そんな綿入れから発せられる何ヶ月もの体臭と汗腺を
通ってきたにんにくの強烈な匂い……。
推して測るべしである。
入ってきた人品卑しからぬ初老のご老人を見て、数人が気がついた。
ねずみ男が紹介するまでもなく、
「英大人」(インターレン)
とさっと立ち上がり、呼びかけた。
それを受けてほかの者たちも相手を悟り、
次々と名前を呼んで立ち上がった。
ところが一人だけ笠を目深にかぶったまま
片ひざを抱えて斜めに座り込み、ふてぶてしく無視するやつがいる。
立ち上がっていないのではっきりとはわからないが、
骨格だけを見ても相当な大男だ。
そして体中から放つ殺気と存在感がすさまじい。
部屋中の者が一通り立ち上がって英廉の名前を呼び終わると、
一瞬の沈黙が流れ、皆の視線が自然とそのふてぶてしい物体に注がれた。
緊張した空気が流れ、場が凍った。
「お、おい。劉全! またおまえか・・・・。
内務府大臣の英廉大人がお越しだ。ご挨拶は」
ねずみ男が怒鳴り声を上げた。
その声が響き終わると、再び静寂が訪れ、
皆が固唾を呑んでその物体の反応を待った。
ところが、次の瞬間に聞こえてきたのは、ぐおおおお、と見事な吸い込み頭のいびきであったのだ。
英廉も呑まれた。
皆も呑まれた。
劉全の豪胆ないびきが部屋に響き渡り、皆が息を呑んだ。
ねずみ男の血の気がすーっと絵画的に引けていくのが、
振り返って見ずとも英廉には気配で感じられた。
――ほほお。大した腹の座り具合だ。
内務符大臣が視察に来たという場面に出くわし、
そのときにうそだか本当だか知らないが
豪快ないびきをかけるというのも、
やろうと思っても並みの肝っ玉の人間にできるものではない。
そういう相手の「呑み方」というのは、
年齢も目上目下も、社会的地位も、正一品の大臣も、
垢にまみれた車夫も関係なく、人間の本性である。
正面切って相手と気配を合わせた瞬間、
――負けた
と思えば、そいつは自分よりも
命が惜しくないやつだということになる。
こういう命知らずのやけっぱち野郎ほど怖いものはなく、
その前には富もこちらの社会的地位も何もかも通用しない。
そういう相手にまともに張り合うと、
最後はこちらがのっぴきならない恥ずかしい立場に追い込まれることは、
生き馬の目を抜く官界で長く泳ぎ渡ってきた英廉には、わかるのであった。
白髪の混じったひげの口元にかすかに笑みを漂わせると、
「よいわ。皆の者、ご苦労」
ときびすを返した。
「え? 英大人、しかし……」
英廉は手を振り、不服そうなねずみ男を連れて部屋を後にした。
呼吸がわからないねずみ男は、
身の程知らずにも、まだ正面から相手にしようとしている。
「申し訳ありません。大人。あやつはいつもあんな調子でございまして、
もう主従共々、
ふてぶてしくてかわいらしくないことそっくりで困っておるんです」
と後ろから恐縮して言った。
「ほおお」
英廉は供の者の控えの間を出てそのまま、
回廊をぶらぶらと歩き続けた。
ここの最初の院からは学生らの姿は見えなかったが、
遠くから聞こえる咆哮のような本読みの声は、一層割れるような大きさであった。
「今年の新入生はどうかね。見込みありそうな子はいるか」
春節明けに新しく十人ほど入学してきたはずである。
もう学校にも慣れた頃だろう。
「さすがに各校あまりにも出来の悪い子は送り込んできませんね。
恥ずかしいですからね。」
とねずみ男は答えた。
咸安宮官学は、宗学、覚羅学、八旗官学、世職幼学、
景山官学などからの選抜学校であることを言っている。
二人はいつの間にか、最初の中庭を抜け、二つ目の院に入っていった。
少年たちの本読みの声は一層大きくなる。
中庭を囲んで配置された平屋には、それぞれ少年たちが授業を受けており、
回廊を歩きながら、外から教室の中がよく見えた。
「そういえば、英大人」
ある教室の前まで来たとき、ねずみ男が小声で英廉に耳打ちした。
「先ほどの太い車夫ですが、その主人に当たるのが、あそこの少年です。
これまた食えない奴でして」
とそっと目である少年を指した。
英廉は案内の李峰がちらりと目配せする方を見た。
一目でどの少年かわかった。
大きな目に屈折した光をたたえた少年だった。
北方のツングース種らしく肌は抜けるように白かったが、
二重の大きな目がやや異民族との混血を思わせ、
きりりと太い印象的な眉毛がその上に居座る。
ツングース種の満州族は体毛が薄く、
ひげや眉毛もあるかなきかの如き薄さ、
胸毛もすね毛もつるつるなのが一般的だということは、
前にも述べた。
二重の大きな瞳といい、太いげじげじ眉毛といい、
旗人の中では珍しい特徴と言っていい。
--モンゴル種でも入っておるかな。あるいは南方か。
英廉は人種的な由来に思いをはせた。
モンゴル人も同じシベリア系の人種ながら、
チンギス・ハーン以来の西方遠征のためか、
時に西アジアや欧州らしき人種の特徴が見られることがあった。
子供の頃に髪の毛が茶色かったり、顔の彫りが深い、
目の色が薄い、体毛が濃いなどの特徴が現れる。
満州族はこれに比べ、
伝統的に満州の地から激しい移動はなかったため、
めったにそのような混血的特長が出ることはない。
唯一あるとすれば、
清初から同盟を組んできたモンゴル人との混血である。
和珅が二重まぶたの美男子だったのは、どうやら本当のようである。
現在よく見かける和珅の肖像画は、
端正な整ったどんぐり目とすっと通った鼻筋が印象的である。
「あれが、先ほどの太いいびきをかいておった輩の主人でございます。
正紅旗のニウフル氏、善保(シャンボー)と言うんですが、
父親の常保は三等軽車尉の爵位を継いで
福建副都統まで勤めておりましたが、数年前に他界しています。
当校には弟も一緒です。」
和珅の少年時代の名前は、どうやら善保というらしい。
いつ名前を和珅に改名したかは定かではないが、
どうもこの後、急激な出世を遂げる前後のようだ。
ちらちらと自分を見ながらひそひそと話し込む
大人二人の視線に少年はどうやら気づいたようだ。
しばらくは、教師の後を他の少年らと復唱しつつ、
無表情に眺めていたが、
どうも自分のよからぬ噂をしていると感じたらしい。
かすかに口元がつりあがり、
あごを心持ち斜めに上げて挑むような視線を投げてよこした。
殺気のにおいは、かのいびきの男と同じ種類だ。
「ほらほら。こっちを睨んでますよ。」
子供をまともに相手するとは、
教育者のくせに困った奴だ、と英廉は苦笑した。
「これが喧嘩っ早いんで、手を焼いております。
体は大してでかくもないんですが、
すばしっこいのと、ひどく執念深く食い下がるんで、
もうあちこちで学生を怪我させるんです。
私のいうことなんか、いつも鼻でせせら笑って聞きやしない。
とにかくかわいくない!」
ねずみ男は言っているうちに興奮してきた。
声がもはやひそひそ話の次元ではない。
幸い、少年らの元気な復唱の声が割れるように響く中誰も聞き取りはしなかったようだ。
話しているうちに李峰は、さらに興奮してくる。
声がどんどん大きくなるこの部下をたしなめる間合いもないので、
せめて少年たちに聞こえないように、
と英廉は自分から足早に教室の前を離れた。
李峰は仕方なしにその後を慌てて追って離れる。
「あまりに周りと揉め事ばかり起こすんで、
これは家長にいうべき問題だろう、
と父兄に連絡を取ろうとしたんですが」
「ほお。それで、どうだった」
そこまでいうと、李峰はそのネズミ顔の
貧相な骨相をさらに俗にきらりと光らせた。
さっきの絶叫声はどこへやら、ひどく大げさに英廉の耳に口元を寄せて、
小声で気味の悪い生ぬるい息を英廉の耳に吹きかけて言った。
「それがですね。ここだけの話ですが、
ひどく複雑な家庭だったんで、びっくりしましたよ」
その声音には、かすかに復讐を果たしたかの如き爽快感の響きがあった。
「道理でね。おかしいと思ったんですよ。
仮にも爵位付きの家柄の嫡男ですよ。
三等軽車尉は極上の爵位というわけではないですが、
仮にも建国以来の『世襲罔替』でしょう。」
「罔替」は、世代が下がっても爵位が格下げにならない特権である。
一つの王朝が創設され、次第に年数を経ると際限なく皇族が増え続ける。
これに手当てを出し続けたために首が回らなくなるというのは、れまでの歴史で証明済みである。
そこで清朝は、爵位を次世代に譲るときに一つずつ格を下げて行き、
数代立てば爵位が消えてしまうような制度を作った。
皇帝の皇子は通常、親王に封じられるが、親王が亡くなれば、その後を継ぐ息子は群王に、
その息子は貝勒(ベイレ)に、その息子は貝子(ベイゼ)に、格下げになり、
そのたびに国家から支給される俸禄も減っていく仕組みである。
そんな制度の中で「世襲罔替」は、世代が下がっても格下げにならず、
遠に同じ格のまま世襲できる特権である。
つまり、和珅の先祖は建国時に「三等軽車尉」の爵位を授かってから、
すでに百年以上立っている今も、
同じ爵位を維持し続けているということである。
――家柄や爵位に弱い輩の哀しさよ。
まくし立てたら止まらなくなっているこの貧相な五官の配置を、
英廉は自嘲と憐れみを持って眺めた。
李峰も英廉と同じ内務府の包衣(「ボーイ」)出身である。
漢族でありながら、支配階級である満州族に極めて近い
特権階級であるがために、
極端な優越感と劣等感の交差が激しい連中が多い。
純粋な漢族であれば、満州族とはどう逆立ちしても出自も違うため、
己と比べてひがんだり、羨ましがったりしても仕方がない。
逆に長城の外にいた野蛮人が自分たちの文化に染まってゆくわ、
と一種の優越感もある。
ところが包衣は、数百年も満州族の主人と同じ釜の飯を食ってきて、
代々満州語と中国語の両方を操り、普通の漢族よりも
特権的な階級に位置づけられているだけに、
満州人の家柄や爵位などに対して憧れや関心が異常に強い連中が多い。
それを同じ出身の英廉は、哀しく実感しているのであった。
「ムクンだってニウフル氏といえば、今上の皇太后陛下と同じ一族」
李峰の説明は続く。
ムクンは満州語で姓をいう。
どちらかといえば、満州の中の「部族」というニュアンスに近い。
始祖ヌルハチにより満州が統一されていく際、
満州族は部族ごとに征服されたり、投降した。
従って早くからアイシンギョロ家(皇帝の一族)
の同盟者になった部族は建国後も地位が高く、
最後まで抵抗した部族や遅い時期に降伏した部族は
冷遇されるという格付けがある。
和珅の姓(ムクン)はニウフル氏、乾隆帝の生母と同じ一族である。
つまりは優遇されている部族の部類に入る。
……このように漢語で話していても、
満州語の単語が入り交ざるのは、包衣社会の独自の言語と言っていいだろう。
「詳しいのお」
英廉が皮肉を込めて、ぽそりとつぶやいた。
「え。……そういうわけでは」
李峰も英廉が言わんとしていることに思い当たり、ぎくりとした表情だ。
本家の満州族に対する劣等感は、
包衣出身者が認めたくない部分だが、どうしても存在するものである。
漢族には威張るが、逆立ちしても満州族にはなれない。
相手が子供でも、爵位や家柄についつい関心が行くのだ。
「まあ、いくらもいない学生たちのことですから、
それぞれの子達の背景は、ある程度が知ってますよ」
と言い訳がましくいう。
「いえね。出身校だって、何しろ世襲幼学でしょう。」
李峰が「世襲幼学」という言葉を口にした時、声は裏返るわ、
つばは飛んでくるわ、で英廉は眉をしかめた。
確かに代々の爵位を持っているなら、
一般の八旗官学にはいかなかったのだろう。
それはただでさえ少ない八旗官学の枠を、
爵位のある家が伝手を通じて割り込むのを解決するためである。
しかしそれがネズミ男には、
高貴な世界への憧れに感じられるらしい。
「あそこから送り込まれてくる子供はもう、
出で立ちからして違うものなんですよ。お肌もつるつるだし」
--世も末じゃ。
英廉は顔をしかめた。
質実剛健を誇る八旗子弟が「お肌もつるつる」だと?
「ついて来る家奴さえも、つるつる、ぴかぴか。
ところが善保はですね。えらくみすぼらしい格好で来るので、
びっくりしましたよ。
それにあの劉全だって、大したもん着てませんでしたでしょう」
劉全がかの殺気の香ばしい好漢のことらしい。
そういわれて見れば、従者らの出で立ちには差があった。
そのへんの労働者のように汚らしい恰好の者もいれば、
こぎれいな出で立ちの者もいた。
--そして劉全とやらは、確かに「水滸伝」から抜け出してきたような豪傑の気配があった。
その印象ももしや、
妙に「江湖(やくざ)」的な服装のせいだったかもしれぬ。
よれよれの木綿の服から汗の匂いを立ち上らせるような
精悍さをかもし出していたが、
ただ単に長く洗濯していない不潔さと言われれば、そうかもしれなかった。
「ですから、最初からおかしいと思ったんですよ。」
さも大事なことをいうように大げさに声を落として、
李峰が英廉の耳元につぶやいた。
「あの学校から来て、こんな子もいるんだ、と。
あれじゃあ……うちの倅の方がよっぽどましな格好ですよ。
けけけ」
ネズミ男は下卑た笑いを浮かべ、
元から細いきつね目がさらに細くなって一本線となって眼球を隠した。
「まあそんな具合なんで、子供は残酷ですからね。
自分と異質な相手を攻撃するでしょう。
特にあやつは鼻っ柱も強いし、凄みもあるんで、
皆も敬遠するんですが、弟が一緒に入ってきてまして、
こいつが弱っちい。
で、いじめられると、今度はまあ、
兄貴やさきほどのあの劉全まで躍り出てきてけんか沙汰ですよ」
「え。従者まで、学生を殴るのか。」
これにはさすがに英廉も驚いた。
従者がよその満州青年をけがさせれば、ただで済むはずがない。
「それがですね。」
ネズミ男の声が急に勢いをなくした。
「これが子供のくせにあやつらは主従二人して、ずるがしこいの何の。
うまいこと巧妙に罰する隙を与えないんですよ。
まずは、善保が弟がいじめられているところに割って入る。
善保は自分から相手に殴りかかることはせず、
相手を言葉で挑発してひどく憎たらしいことをいう。
すると、相手が逆上して殴りかかってきて、
それでケンカ沙汰になるんですね。
もちろん、そのときは多勢に無勢、少年らが集団で二人を滅多打ちにし出す。
中庭の方で騒ぎが大きくなってくると、劉全がそれをぴくりと聞きつけ、
止める暇もなく、校内に乱入していく。
劉全は家奴の身でよそのお坊ちゃんを殴るわけに行きませんから、
そこは主人二人をかばうだけで、
自分からは手を出さないわけですね。
で、劉全が壁になってたり、かばっている間に、
善保が相手を殴りに行く」
英廉は、思わず身を乗り出した。
「そこからがまた憎たらしい。私らが止めに入り、
両者を引き離すでしょう。
それでわけを聴きだすと、この善保の野郎がですね。
まあ、ああいえばこういう。
自分に非がないことを理路整然とまくし立てるんですね。
まず自分から手を出さず、相手から始めたこと、
劉全は一切攻撃を加えていないこと、
そして太祖様や先人の合戦でのあれやこれやの先例を自分になぞらえ、
自分を正当化してしまうんですよ。
結局いつの間にか、こちらが煙に巻かれてしまう」
いつも煙に巻かれるほうの立場らしく、ネズミ男が顔をこわばらせた。
「あんな口から先に生まれたような野郎は、
将来ろくな死に様は待ってませんよ。ええ」
そんな見事な弁舌、聞いてみたいものだ、と英廉は興味を覚えた。
一通り善保(ジャンボー、のちの和珅、本名)の悪口をいうと、
ネズミ男の口調がやや変わった。
にやりと口の端を吊り上げ、またもや大仰に英廉の耳元に小声でささやいた。
「それが聞いてみると、やはり家庭に問題があったのですよ」
さっきまでさんざん大声でがなり散らしておいて
今更ひそひそ声になったところでどういう意味があるのか、
と英廉はまた一人苦笑した。
「実はですね。連中の騒ぎの起こしようがあまりにもひどいので、
父兄に連絡したのですよ。
いえ。
元はといえば、あの二人が少年たちと問題を起こす原因だって、
あまりにもみすぼらしい格好をするからですよ。
仮にも爵位をもらった家柄の末裔なら、
もう少し身なりに気を使ってほしい、とね。
まあこれは余計なことですが、あの従者の劉全だって、
控え室で浮いていますからね。
皆さん天下の咸安宮官学にお坊ちゃんを通わせるには、
家で一番敏捷で見栄えのする従僕を
きらびやかに飾り立てて送り込むものでございますよ」
――ははあ、こいつは家庭の育ちがいいのだな。
ネズミ男の話を聞きながら、英廉は一人ごちた。
育ちがいいというのは、経済面ではない。
精神面、生い立ちの健全さを言っているのだ。
一般庶民の暮らしぶりでは、おっとおがいて、
おっかあがいて、おっかあが子供をぼこぼこ生む。
おっとおが稼いでくる給料で一家があっぷあっぷ言って
やっと暮らせる程度しかないので、
おっとおは外で女を作ろうにもそんなお金はどこにもない。
ただで抱けるおっかあが一番経済的だとばかりに
毎日帰ってきてはせっせとおっかあをかわいがる。
子供たちは両親の掛け合い漫才のような
牧歌的なけんかを子守唄にして育つ。
そういう育ちのよさを言っている。
英廉は自分の幼い頃を思い出した。
人間、中流以上になってくるとそれが怪しくなる。
特に旗人でそれなりの収入が入れば当然のように
第二夫人以下諸々の女性を娶る。
当時の習慣は妻妾同居だから、
家庭の中で複雑怪奇な権力闘争の図ができ上がる。
肝心の一家の主人は公務が忙しく、めったに家に寄り付かない。
時には地方に十年近くも飛ばされることもある。
家に残されるのは、女たちとそれぞれが生んだ子供たちだ。
正妻腹から生まれた嫡男と庶出は家の中で平等ではないし、
母親の寵愛の受け方でも暮らしぶりが変わってくる。
英廉自身も嫡出ではなく、
女中だった母に旦那のお手がついて生まれた口である。
幼年時代の思い出は決して甘美なものではない。
――今上陛下だって、そういう苦労をなされている。
英邁の誉れ高いお上(乾隆帝)も、
誰も口に出しては言わないが、決して順風満帆な生い立ちではない。
今の太后殿下は先帝の女中で容色も優れなかったため、
お手がつくこともなかった。
ある日先帝が伝染病にかかり、
誰も怖がって寄り付かないときに献身的に看病したから、
感激した先帝が一度だけお手をつけ、
そのために身ごもり生れ落ちたのが今上である。