大塩平八郎 | ラストクォーター・・・・・・・心若き友人へ

大塩平八郎


  江戸時代の改革の勉強をしていた時に、いわゆる「3大改革」とは違う動きとして興味を持ったのが始まりです。


  享保・寛政・天保の改革と言われるものは、将軍や老中による上からの改革でした。


  つまり、権力の中枢にいるものによる改革で、幕府の財政の建て直しが主眼です。


  それに対し、学者であるとはいえ、大坂町奉行の与力に過ぎなかった平八郎は、民の立場で改革の断行を迫りました。


   

  その大塩平八郎おおしお へいはちろう)は、1793年(寛政5年)年の今日が誕生日です。


  天満の生まれだとされていますが、阿波国の生まれだとする説も存在します。


  陽明学を学び、知行合一(※)を信じて、自宅で洗心洞という私塾を経営し、頼山陽などとも交際がありました。


  ※ 王陽明の、「知って行わないのは、未だ知らないことと同じである」という主張に基づく、実践重視の考え方。


 

  天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米(廻米)と、


  豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって大阪の民衆が飢餓にあえいでいることに心を痛め、


  当時の東町奉行跡部良弼 に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、


  豪商に買い占めを止めさせることを要請しました。


  しかしまったく聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して、「貧困に苦しむものたちに米を買い与えるため、


  自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけました。


  しかし善右衛門は、跡部に相談し、跡部が「断れ」と命令したため、これも実現しませんでした。


  その後は蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行いましたが、


  もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと考え、


  門人に砲術を中心とする軍事訓練を行ったのち、門人、民衆と共に蜂起しました。


  これが、後に「大塩平八郎の乱」と言われるものです。


  しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もあります)によって奉行所の知るところとなり、


  すぐに鎮圧されました。


  逃亡生活中、四ツ橋あたりで刀を捨て、鞆のとある商家の蔵に隠れていました。


  しかし、数か月後、所在が発覚してしまい、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳。


  「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくするべきではない


  との言葉から、極めて厳格な人間性が伺われます。


  僕は、役人の中から民衆の生活を考え、蜂起するものが現われた「大塩平八郎の乱」、これが、


  維新の士の登場に大きな役割を果たしたような気がしてなりません。


 

  詳しく勉強したいところです。