ある程度引越しも終わったので
神武東征を引き続き書きます。
~本文抜粋~
本居宣長が『古事記伝』に宮の構造を説明して、
『宮の一方を宇佐川の岸に片かけ、一方は流れの中に
大なる柱をたてたるなり』と説明したが、
これだけではよく分からない。
~本文抜粋終わり~
と書いてあった。
続きを要約すると『日本書記通証』という本では
アシはハシの誤聞であり一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)とは
(ハシヒトツアガリノミヤ)で一つの階段のある宮の意味で、
神社の拝殿の造りだと書いてある。
これは神武東征で皇軍進駐を歓迎する為急造で行宮などを
建てたとすればこの説が正しいのではと飯田武郷氏は言っている。
また菟狭津彦兄弟が歓迎した一柱騰宮の跡は
『宇佐神宮説』・『拝田説』・『安心院妻垣説』の3説存在するが
この説は徳川中期からこの地方に伝えられているようだ。
ここで、ふと思ったが菟狭津彦・姫(比咩)は兄弟だったようだ。
自分はこの2人は夫婦だと思っていた。
そして本文中に『菟狭津比咩をもって天種子命に
勅嫁したので妻垣の地名が起った』とある。
妻垣(妻を囲った宮・妻を祀った宮)の妻とは菟狭津比咩なのだろうか。
本文には明治12年・大正4年に神社の昇格願を
大分県知事に提出した時に添付した資料で
妻垣山は宇佐島であり三女神降臨の聖域で
菟狭津彦が一柱騰宮を建立した旧蹟である。云々と続き
現在妻垣神社は玉依姫を祭神とし宇佐八幡の1の御殿として祭っている。
とあって比咩大神は玉依姫としてある。
玉依姫とは神武天皇の母親で神功皇后のことである。
宇佐神宮の祭神の内、二の御殿の比咩大神についても
『元明天皇天平五年(733)癸酉比咩大神御垂跡アリ、
添神武天皇御母玉依姫今ノ二ノ御殿ニテ御座スナリ』とあるが
神武天皇東遷と一柱騰宮奉斉伝説を併せ考えると、
三女神の方が二ノ御殿の御祭神でなければならぬ。
『御宣託集』以後いろいろな説があったが、今は三女神と決着している。
現在は一の御殿は応神天皇・二の御殿は比売大神・三の御殿は神功皇后で
この比売大神が三女神だといっている。
宇佐神宮の歴史は『元明天皇天平五年(733)』の時代から
朝廷主導の歴史になっているようだ。
最後に本文中からまた抜粋して終わります。
~本文抜粋~
いわゆる上陸地が大分県で宇佐一ヶ所であるということは、
上代宇佐の地が北九州文化の中心地として繁栄していたこと、
天種子命の勅媒の件は実利が附帯していたはずで、
奈良時代となって中臣氏の後である藤原氏が
宇佐氏と親密な関係にあって、宇佐八幡が宇佐の地に発現され、
信仰、文化、経済、政治の中心となったことなど考えあわせられる。
神武天皇御東遷が単なる神話であるとしても
それに附帯するいくたの伝説や、民俗は当時民間に伝承されていたもので、
それをことごとく抹殺することはとうてい出来ないと思う。
以上で神武東征を終わります。