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A.C.1995-3-14

A.C.1995-03-14  神戸にて

手のひらに汗の感触を感じる。
今日は少し暖かい。
薄く濁ったフィルターを透かして見たような陽光が、周り一帯を包んでいる。
この午後のやさしさの中にも、どこかよそよそしさを感じているのは私だけなのだろうか?

列車は走り続けている。

その車輪と線路とが奏でる旋律と乗客の視線が交差する場所 - そこに街があった。

列車はなおも走り続ける。

手摺りの規則正しい揺れや開けた窓から滑り込んでくる風は、いつもと変わらない。
だが、ひとつの些細な違いを見つけることになる。
車両の中にいる誰一人として眠ってはいないのだ。
彼らは眼を見開くのを強いられていることに気づいているのだろうか?
そして、そのように考えることが、その中にいることになるかもしれないということに私は常に疑っているのだろうか?

列車が止まる。

降りる者はいない。
一組の家族 - 母親と男の子と女の子、どちらもまだ幼稚園児だろう - が乗り込んできた。

列車はまた走り始める。
乗客の位置が少しずれる。
母親はドアの近くの手摺りに寄りかかり、二人の子どもは空いていた席へ座る。
さっきよりも風が強くなってきた。

音のポリフォニー。
その中に新たな音が加わる。
定規を当てて紙を切り裂くような泣き声。
皮膚=脳にへばりつく音。

乗客はその音を避けるようにして母親に視線を集める。
一瞬のうちに「全員一致で一人を犯し殺した」のだ。
子どもたちがゆっくりとたどたどしく、だが確実に母親のそばへ歩いていく。
母親は子どもたちをしっかりと抱きしめ、その場に崩れるように座り込んだ - 襞の中で眠るようにして。


私たちには責任があるのだ。


列車はまだ走り続けている。
車両の連結部分が激しく伸縮する。
まるでその声を他の車両へ届けようとするかのように。
音のポリフォニーは激しさを増しながらこの声と共演し、窓から入る風は列車全体をこの演奏で満たす。

「Buenos Aires Hora Cero」

ブエノスアイレス午前零時行きの列車が今日も走っている。
第2次大戦前夜を(これは、平井玄が明らかにしていたはずだ)、そして、今度は神戸へ・・。
今、私は「人探し」に向かおうとしている。

「世界を波として感じたとき、人は郷愁をおぼえる」(港千尋『波と耳飾り』)

ハイブリッドな不協和音を奏でるピアソラのタンゴを波として感じたとき、私は文字通り他者と「触れ合う」ことを望んでいるのかもしれない。