いま、旧twitterで賛否が分かれている、余命一か月の少年へライダーが駆けつける事案について。

 

 

個人的には、僕は「どっちも正解であり、どっちも間違いでもある」というスタンスです。

 

 

確かに余命一か月、少年、というワードだけ見れば、ヒーローが味方してくれてもいいけど、じゃあ二人目、三人目が現れたら?しない道理はなくなっていくし、全員が救えるのかといえば、絶対救えない。

 

 

ウルトラマンの円谷がやっているように、定期的な訪問、それこそ病気で入院している子供たちや身寄りのない子供たちにヒーローがやってくる慈善事業が厚いところならまだしも、東映ってそういうのなさそうじゃん。

 

 

オリジナルキャストはなおさらで、舞台、ドラマ、映画、忙しいはず。その合間を縫って会いに行く。話は分かるけど、それこそ最初に戻り、二人目三人目が出た場合は、行くのか?

 

 

ヒーローだって聖人君子の人間がやっているわけじゃない、どこかで限界が来る。

 

 

そのあとに、ヒーローに会いたい、でももう命がない子は、我慢するしかないのか?

 

 

言ったように、僕は肯定もしているし否定もしている。

 

 

ヒーローの呼びかけは絶対心を救うはずだし、美しいと思う。

 

 

僕だって会いたいもん。母を亡くしてからヒーローに出会って14年、誰かに頑張ったねって言ってもらいたい。

 

 

そんな素朴な、取るに足らない中年の願いさえも見逃さないヒーローなら、僕は肯定派になりましょう。

 

 

でもそんな願いが届くのって、言って何百分の一って感じじゃない?

 

 

その一つをたまたま救って、全体でこうだという、否定派論者や当事者のヒーロー、それは違うんじゃないかなって。

 

 

一つがこうだから、それそのものの問題をこう論じる。それは間違っている。

 

 

これはどこまで行っても個人の話で、一つに決められるものではないはず。

 

 

そういう意味で、「どっちも正解だし、どっちも間違い」なのよ。

 

 

こういう子がいたら、僕たちは絶対に駆け付けます、っていうヒーロー。じゃあ絶対そうしろよ?ってなるし。これで反故ったらまた叩かれるわけで。

 

 

安直なコメントやメッセージしか出せないなら、こういう公の場で駆け付けました報告するぐらいなら、個人でこそっとやれよ。それがせめてもの、同じ境遇を持つ子や親への配慮だろう、と。

 

 

百歩譲って、駆け付けました。ならわかる。でもそれでその駆け付けを批判するする人に反論しかみつくのは、ルール違反というか、モラル違反じゃないか?

 

 

ヒーローは正しい、でも正しさを論じるヒーローなんてただのやっかみ。言っちゃえば正義マンすぎる。

 

 

だから、駆け付けという正解と、駆け付け自体の間違いに目を向けるべき。

 

 

少年やその親は悪くない。その少年と親をわっしょいしていたり、批判するいる周りが悪い。

 

 

もっと本質に目を向けようぜって話でした。