レポート整理をしていたら、大学2年生のときに書いた嵐のレポートが出てきたので載せちゃいます。このときは頑張って書いたんだろうけどなんだこれ。
もう自分でも何いってんのかよくわかってないけど、時代の流れと嵐の人気に関係性があるんじゃねえかってことをひたすら書いてあるだけ(笑)
時間つぶしにでもどうぞ~
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なぜ私は嵐が好きなのか?
はじめに
私は、現代は「不可能性の時代」であるという話に大変興味を持った。
私は、現在日本を中心に活躍するジャニーズ事務所のアイドルグループ「嵐」のファン である。ファンクラブにも所属し、コンサートにも何度か行った。私の生活は「嵐」を中 心にまわっていると言っても過言ではない。このことは、まさに「不可能性の時代」において「動物化」へと向かう個人の生き残りへの模索の一つであると考えられ、自らがそう いった立場にあることはせっかくの機会なので、私自身の経験をもとに、いくつかの資料 と照らし合わせながら、なぜ私は「嵐」のファンであるのかについて論じてみたいと思う。
分かっているけどやめられない
ジャニーズファンについて書かれた論文に次のような記述があった。
アイドルはメディアが創り出した虚構であると認識しながらも、その虚構 の世界に生きるアイドルとの結びつきを、他のファンたちと共謀しながら自 分たちの手で創り出すという、力強く生命力に満ち溢れた営みが行われてい るということは、紛れもない事実である。そしてそのファンたちの営みは、 単なるファン文化にとどまらず、アイドル供給側のジャニーズ事務所のマネ ジメントにも大きな影響を及ぼすものでもある。そこには、「アイロニカル な没入」という言葉では片付けることの出来ない、熱を持ったものがある。(徳田 2010)
この「アイロニカルな没入」とは、大澤真幸氏の著書『不可能性の時代』のなかに登場 する一説である。この著書のなかで「アイロニカルな没入」は、オタクという現象につい て触れられているものなのだが、上記の論文も含めて考えれば、それはジャニーズのファ ンにも言えることだということである。これは、ジャニーズファンにはオタクの要素があ るということでもあるのかもしれない。
印象的なのは、ファンがアイドルはメディアが創り出した虚構であると分かっていながら、むしろその状況に乗っかるような状態でいるということである。これについては私自 身、身に覚えのあることでもある。アイドルが創り出されたイメージの象徴であることは 十分理解しているが、その容姿やパフォーマンスに魅せられ、見ているだけでも心が満たされるような気持ちになる。まさに、分かっていてもやめられないのだ。
また、自らが長年ジャニーズファンを続けながら感じていたのは、一種のストーカー的な感覚である。ジャニーズは特に、人気が出れば出るほど遠い存在となり、握手をするこ ともあまりできない。そんななかファンは、造られたイメージのなかに垣間見られる “素”を見出そうとする。できることが制限されているからこそ、与えられているものの なかから特別感を見つけようとするのだ。こちらは存在を認識しているが、その対象はこ ちらを認識していない状態で、対象の日常を覗こうとしている形がストーカーのように感 じるのである。いわば、ジャニーズファンは公式ストーカーとでも言えるだろうか。
なぜ「嵐」が好きなのか
ここまでは、論文と著書をもとにジャニーズファンがどのようなものであるかについて述べた。ここからは、対象を私が好きな「嵐」に限定して考えていく。
「嵐」はジャニーズ事務所のグループであり、1999 年に結成、CD デビューを果たし た、5 人組である。デビュー曲「A・RA・SHI」は、その年のワールドカップバレーボー ルのテーマ曲でもあり、「嵐」は一躍有名となる。しかし、そこから数年間はこれといっ たインパクトを残すこともできず、いわゆる低迷していた状態だった。そんな「嵐」の人 気が少しずつ増えていったのが 2006 年である。そして 2008 年には、「嵐」を取り巻く人の輪が膨れ上がっていた。そこから現在 2015 年まで人気が衰えることはなく、いつまで 続くのかは私も気になるところではあるのだが。
この「嵐」の人気が出始めた頃に注目したい。きっかけはあったにせよ、それが世の中 に受け入れられたのは、社会背景に何か関係があると考えた。2006 年から 2008 年にかけ て、またそれ以降の世の中にどのような背景があるのか。ここで注目したいのが、前章で も紹介した大澤氏の著書『不可能性の時代』である。この著書は 2008 年に出版されたものである。つまり大澤氏の示す現代とは 2008 年前後を指すと考えられ、まさにその時代 こそが「不可能性の時代」なのだ。
そしてもう一つ注目したいのが「嵐」の魅力についてである。世の中の大半の人は、「嵐」の魅力は「仲の良さ」だと言うだろう。辻泉氏の論文のなかでも、「嵐」のファン に対し、「彼女らの多くが『嵐の 5 人が仲良くじゃれ合っている様子を眺めているのが一 番楽しい』と答える」としており、ここから「仲の良さ」は「嵐」の魅力の一つだという ことが分かるだろう。
「嵐」を好きになった理由、そこには「嵐」が人気になった理由も隠れていると思うの だが、それらは決して一つではないことは理解している。ただ今回このレポートにおいて 私は、「嵐の仲の良さ」と「不可能性の時代」という 2 つの点に着目して考察していきたいと思う。
「仲の良さ」と「不可能性の時代」
著書『不可能性の時代』のなかに、「住まい内の空間がますます個人化(個室化)されると同時に、他方では、その個人化された空間が、家族以外の社会空間に直結するようになる」とある。人々はかつて家族が集まりコミュニケーションを取っていたような空間か ら離れ、個人という殻にこもった状態で他者とコミュニケーションを取ろうとしていると いうのだ。
そのことと「嵐の仲の良さ」がどのように関係しているのか。私はこのように考えた。 個人化が進み、人とのコミュニケーションがインターネットなどを介して取られるように なった。重要なのは、人々はコミュニケーションを拒んでいるわけではなく、変化に対応 しながらも何とか他者とコミュニケーションを取ろうとしている点である。しかしなが ら、インターネットを介してのやりとりには弊害が出やすい。
そんな時に、仲良くじゃれ合う「嵐」の姿は、人々に大きな影響をもたらしたのではな いだろうか。仲良くじゃれ合う彼らの姿に、自らを投影して見ていたとも考えられる。こ れは一種の虚偽性でもある。他者との関係性を築きたいのに、うまく築けないことで溜ま った自らへの不満や不安を、仲良くじゃれ合う「嵐」を見ることで補う。「嵐の仲の良 さ」と「不可能性の時代」の間には、そのような関係性が生まれているのではないかと私 は考える。
そして、そのような虚構的な活動を通して、新たな他者とのコミュニケーションが生ま れることもある。平たく言えば、ファン同士のつながりだ。つまり、虚構性がリアリティ を生むのだ。このことはもちろん、他の事柄にもあてはまることではあると思う。ただ、 私がなぜ「嵐」を好きなのかを考える上での、一つの大きな理由でもあると考えられる。 それは同時に、「嵐」が多くの人からの人気を集めていることにもつながっているだろ う。
おわりに
今回、私はこのレポートにおいて、非常に主観的なテーマを掲げた。しかしながら、そもそも主観とは何なのか。その背景にも社会的なものが関係していると考え、自らを対象 にしてレポートを書くことにした。
私自身、自分はいつまで嵐のファンなのだろうと考えることがあった。お金をいくら使 っているのか、時間をどれだけ割いているのか、そういうことを考えれば、ファンなんて やめてしまったほうがいいのかもしれない。しかし、レポートのなかで述べたように、分 かっていてもやめられないのである。
今回は、「嵐」の人気がまだ衰えていないことも含めて、「自分がなぜ好きになったの か」と、「なぜ人気なのか」を照らし合わせて考えた。それは、もう「嵐」のファンはア イドルファンだけではなくなっていると感じていたからである。コミュニケーションが取 りづらい状況になってもなお、他者との関係を持とうとする人々。その人々の足りない部 分を補った「嵐」の「仲の良さ」。
今後も人々は個人化し、私たちのコミュニケーションの形態に変化が見られない限り、「嵐」の人気は衰えないのかもしれない。「嵐」の人気が衰えたときには、また違う視点から、なぜ私は「嵐」が好きなのかについて考えてみたい。
<参考資料>
『不可能性の時代』 大澤真幸 岩波書店 2008
『ジャニーズファンの思考』 徳田真帆 2010 http://hdl.handle.net/10086/18563
『「観察者化」するファン―流動化社会への適応形態として―』 辻泉 AD STUDIES vol.40 2012 www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_40_01_05.pdf






