万葉集や興福寺縁起から、鏡女王は後に藤原鎌足に嫁いだとされています。王である鏡女王が、本当に皇族以外の人に嫁いだのでしょうか。この時代、皇女や二世女王が皇族以外の人間と結婚することは当時の法律である戸令で禁止されています。

 

万葉集の以下の3首を検討してみたいと思います。

 

93 玉くしげ覆ふをやすみ明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも(鏡女王)

 

94 玉くしげみもろの山のさな葛さ寝ずは遂にありかつましじ(藤原鎌足)

 

93の題詞に、

 

内大臣藤原卿「娉」鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首

 

とあります。「娉」(つまどう=求婚する)とあるので、これは求婚時の歌ということがわかります。

鏡女王の歌はわざとつれなく詠んでいるとも、迷惑なのをやんわりと伝えているとも取れますが、鎌足の歌はがっつり恋愛感情を出しています。

 

鎌足は忠志なので、天皇の思い人を横取りすることはないように思います。ですから、天智天皇(中大兄皇子)の許可をもらって求婚しているか、後に天皇から許可を得ようとしたと思います。

 

私は「後」だったんではないかな、と思います。天智天皇の返答を受けて95の歌となるのではないかと思うのです。

 

95 我はもや安見児得たり皆人の得かてにすといふ安見児得たり (藤原鎌足)

 

この歌には、

 

内大臣藤原卿「娶」釆女安見兒時作歌一首

 

という題詞があります。「娶」(めとる=嫁にする)なので、采女の安見児とは結婚したようです。

 

この歌は2種類の解釈ができるように思っています。

 

解釈1)天智天皇が「鏡女王は身分上あげられないが采女の安見児を代わりにあげるよ」と、鏡女王の代わりに采女の安見児を下げ渡した。

 

解釈2)鏡女王=安見児で、鎌足は鏡女王と結婚できた。

 

ポイントは鏡女王と安見児が同じ人が違う人かです。

普通に読むと違う人と思いますよね。私もずっとそう思っていました。

しかし先日、誰の説だったのか忘れてしまったのですが、安見児は=鏡女王で、その根拠は万葉集93の

 

玉くしげ覆ふを「やすみ」明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも

 

の「」を付けた「やすみ」だとおっしゃっていました。「やすみ児」は字(あざな)で、この歌の「やすみ」を取って「やすみ児」という字をつけたのでは、という説でした。これはあり得るかもしれない、と非常に納得しました。

 

それを踏まえてもう一度93、94、95を読み直してみると、確かにこれらの歌が連続して掲載されているのは関係がある歌だからではないかな、と思いました。鏡女王≠安見児だとしたら、安見児の登場は唐突すぎる感じもします。

 

93が求婚されたときの鏡女王の歌、

94が求婚した時の鎌足の心情、

95が結婚が認められた時の鎌足の心情、

 

というように一連の流れとしてとらえるとこれら3首の歌のつながりをスムーズにとらえることもできます。

95の鎌足の喜びようは尋常ではないように思われますから、本当に「やすみ児」と結婚できることがうれしいのだと感じられます。

 

「鏡女王≠安見児」だったとして、これは男性に聞いてみたいのですが、

 

「好きな人の代わりに評判の美人をどうぞ」

 

と言われても95みたいに大喜びするものなのでしょうか?

 

私的にはしっくりこなくて、

 

鏡女王=安見児

 

の説のほうがしっくりくるなあ、と思ってしまいました。

 

鏡女王が采女なのか??については、ちょっと想像力を働かせて考えてみました。

 

①女王を皇族以外の人に嫁がせるわけにはいかないから、世間的には采女を下賜したことにした。(だから万葉集にも「鏡女王」とわからないように「安見児」と書いた。

②万葉集には「鏡女王」でなく「鏡王女」とある。これは、鏡王の女(娘)である額田王を示唆することで、世間に「鏡女王」が下賜されたことがわからないようにした。

 

そんなことが隠れてできるのかはわかりませんが、ある程度の年齢行っていて、親も亡くなっていたら、身内もいないので可能なのかもしれないな、と思いました。