持統天皇は645年生まれです。彼女の祖父蘇我倉山田石川麻呂は649年に自害しています。続いて母の遠智娘も亡くなっています。

 

その後、遠智娘の子である、大田皇女、持統天皇(当時は鵜野讃良皇女)、建皇子はいったい誰に引き取られ、育ててもらったのか、いろいろ資料を見ましたが、わかりませんでした。そこで推測をしてみました。

 

当時は通い婚なので、母が死んだら、母の実家で子供は引き取り育てるようです。天智天皇も、大田が亡くなった後、大田の子供である大伯皇女と大津皇子を引き取っています。母方の祖父だからです。

 

本来なら石川麻呂の実家で大田、讃良、建は引き取られるはずだったと思いますが、「日本書紀」によると、石川麻呂の妻も二人の息子たちとその孫たちも後を追ってしまったために、家自体が滅亡してしまったようです。

 

候補としては、祖母の皇極天皇、父の中大兄皇子、叔母の姪娘(中大兄の妻)があげられるのかな、と思っています。姪娘が自害せず残った理由はなぜなのかと考えましたが、恐らく石川麻呂と一緒に亡くなった妻ではなく、他の女性の子供だったからかな、と思っています。姪娘は遠智娘が死んだ時はまだ中大兄皇子には嫁いでいなかったように思います。姪娘の子、御名部皇女は天武天皇の息子の高市皇子と、次女の阿部皇女は、鵜野讃良の子の草壁皇子と結婚しているので、一世代後に産まれているからです。

 

となると、姪娘は若すぎて大田、鵜野、建の3人を育てられる年齢ではないような気がするから育ての親候補から外れるように思います。となると、父方で引き取った可能性が高いです。

 

建皇子は、祖母の皇極天皇にとても愛されていたことが、記録から感じとれます。 皇極天皇が建皇子の死を悼む和歌が6首、日本書紀に残されています。和歌から、その悲しみがひしひしと伝わってきます。和歌はここでは割愛させてもらいますが、皇極天皇が建皇子の死をここまで悲しんだ理由を考えてみました。

 

・建皇子が、中大兄の有力な跡継ぎになれる血統だったから (建皇子の母親の血統にも不満がなかった)

・建皇子の成長を間近で見る機会が多く愛着があったから

 

1つ目の跡継ぎ有力説についてですが、

遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。石川麻呂は前述したとおり649年に中大兄皇子に自害に追い込まれています。それに遠智娘は皇女ではありませんから、この人の息子だったとしても斉明が手放しで喜ぶほどいい血統の跡取りではないです。

 

また、建皇子は「唖不能語」(話すことができなかった)と日本書紀に記載されています。口が利けない子が天皇になれるとは考えずらい気もします。

 

 2つ目の建皇子が身近にいた点ですが、私にはこちらのほうが悲しみに暮れた理由としてしっくりします。「日本書紀」によると、皇極天皇は、自分が死んだら建皇子と同じ墓に葬ってほしいと言ったそうです。それって身近で心からの愛情がなかったら生まれない感情なんじゃないかなって思います。建皇子が障害児だったことも考えると、健常児に比べ手がかかった子でもあったと思います。

 

私の母の友人が障害児を毎日付きっきりでみていましたが、その子が17歳で亡くなった後、本当につらそうだった、と言っていました。その子が「死んで楽になった、これから自由に生きられる!」とは思ないのです。当たり前のようにお世話していた対象がいなくなり、悲しくてどうしたらいいのかわからなくなるようです。皇極天皇もそうだったのではないでしょうか。

 

大田皇女、鵜野讃良皇女、建皇子の3人は父の中大兄皇子に引き取られ、皇極天皇がかなり近くで面倒を見ていたような気がします。

 

そしてだから、大田も鵜野讃良も皇極の息子の大海人皇子と結婚することになったのではないでしょうか。

 

「あの二人も年頃になってきたし、私もいつ死んじゃうかわからないし、私の後、あなた、面倒見てくれない?」

 

なんて、皇極が大海人に言ったような気がします。