あなぐら部屋におけるステータスが上がれば、下級生でもドアの鍵を持つことがゆるされる。

 

呼吸器系に弱点を抱えていない限り、真冬以外は…およそ快適なレベルとはほど遠いけれど…そこそこの勇気があれば…蛍光灯めがけて枯葉色の厚ぼったい翅をばたつかせるやつらとか、黒光りする巨体をもてあますこともなく壁、床を俊敏に這いまわるやつらの嫌がらせをものともしない鈍感さがあれば…24時間利用さえしようと思えばできないことはない。

 

夜10時くらいに警備員さんが巡回してきて、早く帰りなさいよ、とちょっと不機嫌そうにひと言かけてくれるのだが、それは実は宿泊許可の合図なのだと、優しい上級生は教えてくれる。

 

とはいっても、ひとりで、それなりに優雅に過ごせるのは真夜中から午前中までで、午後からはひとしきり喧噪の渦のなかに放り込まれることになる。

 

築20年超とされるバラックをべニア板で4つに仕切り、それぞれサークルごとの占有スペースとしている関係上、詩吟、アンデスの民謡、巫女の呪詛から教授への悪口まで、隣室だけではない周辺の物音がまる聞こえなのだ。

 

それに業を煮やして、ある年、入口の扉だけでも、と、手づくりで分厚いものに付け替えたそうなのだが、製作者はいつまでも「俺の扉」と自慢してくる。

あそこに俺のサイン残しておいたから、とOB会でからんでくるのだけれども、そんなものは、あっという間に怪しい、いや、ちょっと神秘的な色彩のペンキで二度塗り、三度塗りされてしまって、もはや知る者などいない。

それでも…発見しましたよ、この前、とか、ああ、あれが伝説のサインなんですね、とか、レジェンドにお会いできて感激です、とか、極上のうえにも極上の対応をしなければならないのには理由があって…。  (続く)

 

ペンキ缶、材木、拭いていないラジカセ、つかないストーブに極彩色の成人マンガやら硬派の雑誌、野球グラブ、バドミントンのラケット、そして何とも形容しがたい異臭を放ちつつある寝袋…

終日陽の入らないあなぐらの天井隅で、埃まみれの蛍光灯と、真新しい小さな換気扇が黙々と仕事をしている。

 

その前年に卒業記念品の希望を募ったところ、(卒業する先輩部員は必ず記念品を贈る習わしがあり、ラジカセ、ストーブ、成人マンガ…)満場一致で換気扇と決定した。取り付け作業まで先輩に押しつけた胆力のある後輩に恵まれたことはまことにもって幸いだった。

 

部員のあいだで嫌な咳が流行りだすそのタイミングで、年に数回の大掃除がおこなわれる。

組織への忠誠心を誇示し、あなぐら部屋でのステータスをあげるのには絶好の機会。

授業を理由に不参加を決める者は、引退時まで何かにつけて罵りの標的になることを覚悟しなければならないけれども…まあ、自分の単位まで犠牲にして献身しても称賛されるはずもなく、せいぜい、年に一度刊行される手づくりの部誌のネタのひとつとして消化されるだけなのだが。

 

部誌の発行には、3つの現実的な、時には切迫した狙いがあった。

学校公認のサークルには、さほどの額ではないものの、まあまあ舌なめずりしたくなるくらいの活動助成金が学生自治会を通じて支給される。その申請に必要な活動実績の報告書や部員名簿に添えて、部誌を提出しなければならないのだが、問題だったのは実は部誌ではなく部員名簿のほうで…

 

助成金額の決定は学生自治会内の担当部署に実質的な権限があり、活動の内容や実績や部員数をもとに査定がおこなわれる。部員数の水増し偽装などもってのほか。(後になって露見して、活動休止から解散に追い込まれたサークルがある。)

部員数が確定した後でもできること、前年からの増額、せめて減額されないためにできることといえば、その年の新入部員(1年生部員)をおだてたり、恫喝したり、なだめたり、あらゆる詭弁を自在に操って彼らを酷使して、可能な限り(中身は薄味でも)紙数の多い部誌を仕上げ、ほら、こんなに頑張っていますよとアピールするくらいのもので。

 

ところで、肝心な話、何をしていたサークルかというと、それはまた、いずれ。

 

部員名簿の問題とはもちろん数の水増し云々のことではない。

代表を含む幹事3名については、名簿に住所・電話番号を記載することが必須だったのだ。そのことの何が問題かというと・・・

 

「闇鍋」と言われていた。いや、学生みずからそう自虐するような大学だった。

朝はキャンパスの木立ちの高いところから聞こえてきた鳥のさえずりが、正午あたりになると学生たちの雑然とした往来の靴音にかきけされ、やがて笑い声、かけ声、歌声、嬌声、シュプレヒコール、そして罵声までが満ち潮のようにおしよせて来て、まるで自分が道に迷ってしまったかのような錯覚に陥ってしまうのだった。

それを目ざとく察知したか、素早く近づいてきてはビラを一枚押しつけてすぐに去っていくのは、政府を批判する者、政府を批判する勢力を批判する者、海外戦争を批判する者、戦争や貧困の原因は不信心という者、神だ、いや仏だ、いろいろな者がいて、実は他校の学生だったり、はたまた学生ですらなかったりする。学籍を持たずに無銭で講義を欠かさず受けていたなんていうのはまだしも、自治会活動を表立ってけん引していたというところがまさに「闇鍋」なのだ。

ヘルメット、、白タオル、ハンドマイクの完全装備で、来る日も来る日も構内の決まった場所でアジ演説をしているひげの濃い蓬髪の男を指さして、ある先輩が僕に言った。

「あいつ、3年前に○○大を辞めてここに来たんだぜ。」

「うちの学生じゃない。」

「みんな知ってる。職員だって知ってる。」

 

そのアジ演説が続いた2年間、大学当局と自治会の対立が激化したあおりで、授業は

たびたび中断され、教室ロックアウトの末、期末試験が取りやめとなった。

 

長身でがっしりとした体格の、ロマンスグレーのイギリス人教師が必修科目の英語を

担当していた。ゆっくりと易しい英語で英詩の解説をしつつ、自分の故郷(まったくの田舎)や母校(オックスフォードだったかケンブリッジだったか)についてユーモアを交えて話してくれるという、そう、イギリスへの憧れを誘うような、あるいはこの人はイギリス政府観光局か留学仲介業者の回し者ではと疑いたくなるほど母国への愛着が伝わってくる、そんな授業だった。

 

「学生自治会」の腕章をまいた若い男が突然闖入してきた。足早に教壇に駆け上がり、授業を中止するよう(英語で)要求した。イギリス人教師はその理由を問うかと思いきや(状況は把握していたのだろう、さすが、と思った)即座にこう言った。少し怒気をこめて。

「This is my class.not yours.」

 

ほう…とつぶやくような、ためいきのような声が教室の中で広がった。

まもなく誰かが、お前が出て行けよ、と声を上げた。

出て行けえ、と女子の声が聞こえると、教室中に笑いが巻き起こった。

それに観念したか、腕章男はすごすごと退出し、授業はすぐに、なにごともなかったように再開された。

 

日本人教師はことごとく要求に屈した。揉み合いになりそうな場面もあったが、たいていは大事に至るのを避けるためか潔く授業を中止した。毎日の休講掲示板が少しのすき間もなくびっしりと埋まっている、そんな時代だった。

 

学生自治会に住所をにぎられるというということは、日々オルグ(勧誘)の危険にさらされることを意味していた。執拗な電話も厄介だが、それよりも、変に気に入られた日には直接居所を訪ねて来るようになる…そんな時代だった。

なかには情熱にほだされてオルグを受け入れてしまう奇特な人物もいるのだが、少なくとも学生運動にシンパシーを抱ける人間は、「あなぐら部屋」に入りびたり、不健康で非生産的で享楽的で刹那的で、社会正義の実現にこれっぽっちの関心もないような学生生活を送ることはない。

 

あまりにもひたむきで好戦的な彼らと決してお近づきになりたくはないのだ。

しかし助成金を獲得するには生贄を差し出さなければならない。部員名簿の虚偽記載が明らかになれば、二度と助成金は下りないかもしれない。

三名の勇者を決めるために幹事学年(上級生)の話し合いがおこなわれる。

勇者にふりかかってくるのはオルグの危険ばかりではない。大学祭の実行委員となって、実行委員会=学生自治会に命じられた強制労働に従事しなければならない可能性があるのだ。

 

大学祭実行委員は全サークルからの立候補を優先するが、必要数に満たなかった場合はくじ引きがおこなわれる。なにしろ、もれなく強制労働がついてくるのだから毎年くじ引きになる。勇者はこのくじ引きのスリルを味わえる権利を押しつけられることになる。

 

くじ運のない勇者の伝説が語りつがれている。

自治会室のある学生会館の屋上で、午後から看板の制作を命じられた。

孤独な作業を黙々とこなし、ひと区切りついて飲み物を買いに階下へ降りようとしたところ、階段へ向かう出入り口の扉が開かない。逃亡を防ぐために鍵がかけられていたのだ。

弁当が出る約束だったので、気を取り直して作業を続けた。ケータイなんてない時代だ。

夕闇が迫って来た。弁当は来ない。すっかり陽が沈んだ。弁当は来ない。夜8時になった。弁当はまだ来ない。

雨が降って来た。出入り口の小さなひさしの下に看板を避難させ、それに寄り添うように震えながら弁当を、いや、扉が開くのを待った。

夜10時になった。

ようやく扉が開き、手ぶらでやって来た自治会の執行委員が、勇者に向かってこう言った。

「え、まだ看板できてないの?」

 

勇者を選ぶ話し合いは、あなぐら部屋の中で延々と、最終電車の時刻近くまで続く。危害が及ぶことがない下級生が経過をにやにやしながら見守っている。

あの時寝坊して遅れただの、作業をさぼって後輩女子といちゃついていただの、授業がなかったのに大掃除に来なかっただの、話し合いというより過去の失態や醜態をあげつらい大笑いしながら、

「あの時の埋め合わせは当然…」

「わかった。やる。」

という展開で決着する。

 

実は、大掃除をさぼった者、サークル内の禁忌(これについては、また、いつか)をおかした者は指名を拒否できないという暗黙の了解をふまえた上でのセレモニーに過ぎないのだが、そのことに触れるような真正直で真摯な人間はあなぐら部屋の住人のなかにひとりとしていない。

 

構内が落ち着きを取り戻すそのタイミングで大掛かりなアジ演説は消えた。それから、あの蓬髪男の姿を二度と目にすることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陰鬱でもなく、かといって決して快活なわけもなく、ずっと曇り空を見上げながら不思議なため息をついている…何かしら予感めいたものがあるわけでもなく、なぜかとても薄い不安のベールにつつまれているような気分…その昔、それが僕にとっての春の印象だった。

 

授業そっちのけでサークル活動三昧の2年間が過ぎていた。

授業をおろそかにしていたのにはそれなりの理由がある。いや、ちょっと弁解をさせてほしい。

 

教養課程の少人数のゼミで、発表の順番が回ってきた。与えられたテーマは「哲学と社会学の比較」だったか。

哲学の対象が自然から神、そして人間へと変遷してきた歴史を教わった後の発表で、社会学とはいわば社会というフィルターを通した新しい時代の人間学から出発して独自の進化をとげていく云々…とそこまではよかったのだが、社会学の有用性という説の紹介のくだりで、事件は起こった。

 

ことばの選び方を誤った、なんて反省する気持ちはみじんもない。有り体な言い回しにくっついている「とげ」なんてウィットだし、ユーモアだろ…

 

役に立たない、と言った。哲学は役に立たないが、と確かに言ったけれども、その瞬間に結構な怒声が教室に響いた。

役に立たないとはどういうことか!!…とひとりの学生が眼に怒気をみなぎらせて大きな声をあげたのだ。

 

まず言っておくが、僕はけっして好戦的な気質ではない。どちらかというと争いごとからはなるべく逃げ回りたい性分であると自覚している。観戦は別だが、自分がプレイするとして、たとえ球技であっても個人種目を選ぶことすら絶対にない。

 

しかし、このときばかりはしっかりとファイティング・ポーズをとって応戦した…と思う。それだけ腹立たしかった。腹立たしさのあまり、何と言い返したか憶えていない。腹立たしさのあまり相手が口にした後のことばもろくに聴いてはいなかったと思う。そしてここではあえて彼の容姿・風貌については触れないでおこう。触れるのも腹立たしい気分をご理解いただきたい。

 

自らの研究を「けものみち」にたとえた哲学者がいる。それを言おうとしていた矢先のできごとだった。この世界はまったくもって役に立たないもので満ち溢れているというのに。

 

彼が哲学に対してひたすら直線的でひたむきな愛情をいだいていることはわかった。

僕はそのひたむきさを受け容れる心を持ちあわせていなかったし、それは今でも変わらない。18、19という若さのせいにするのは誤っていると思っていたし、今でもそうだ。

ただ、その時一番腹立たしかったのはそのことではない。

 

学生同士の言い争いを制止すべく、指導教授がこう言った。

「哲学が役に立たないというのは間違っていますね。」

 

かろうじて救いあるとすれば、その教授の専門が哲学ではなかったことだ。ナントカ社会学の専門家が哲学にお世辞をつかったと考えられないこともないが、その時、僕はその教授の愚鈍さ(そう思った)に憤り、果ては物悲しい感情がこみあげてきて思わず押し黙った。

 

時限終了のチャイムが鳴って席を立ち、教室を出た。

二度とそのゼミに出席することはなかった。

そして、ほかの授業からも次第に足が遠のいていった。、

 

哲学をこよなく愛するその少年と哲学に最大限の敬意を示したその教授については後日談がある。またの機会に。

 

3回目の新年度がスタートして間もないころ、すでに僕の棲家となっていたサークル部室の扉を、勇気をふるってノックした二人の女子学生がいた。

 

さぞや勇気が必要だったろうに、と思う。

なにしろ、たとえは良くないが、戦後まもなく建てられ放置され、朽ち果てる寸前または大雨でも降ろうものならすぐに溶け崩れてしまいそうなバラック小屋の隅の、

ものは言いようだが60年代サイケデリック風の(僕ではない、誰かがそう言った)

率直な説明としては、実におどろおどろしい紫を基調とした色彩の、

パッションとかトポスとかアタラクシアとか、もはや呪いのことばとしか思えない文字がなぐり書きされたべニア板の扉が据えつけられているその奥に、どんなケダモノが棲息しているものやら、並の神経の持ち主であれば到底足を踏み入れるのがはばかられるところを、

18歳の乙女たちが訪ねて来た。                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お前を好きになる女なんて、視力が悪いか趣味が悪いか頭が悪いか…などと散々な言われ方をされてきたのだ。醜男が醜男を見下してどうする、と罵りあうことが友情の証みたいなものだった。

 

ある日、電車の中で、牛鬼のような面相の若い男が、手鏡を使ってセットしたばかりと思われる日焼け色の髪をさかんに指でいじっている姿を目にした。

 

 彼が背にした車窓の先を、咲き始めたばかりの桜並木が過ぎていった。

 

 そんな季節なんだ、と思った。

 

 そして、僕たちが醜男同士の罵りあいをしていた頃、ある偉大な作家の自殺が世間を騒がせたことを思い出した。

 

 美男の秀才としても名をはせたその文豪の作品に少しも惹かれたことはなかったし、国語の時間に読まされた短編(幼い恋の始まりの予感…)の感想は、ん?…だったし、いま思えばいやがおうにも匂いたつナルシズムの香りが鼻について仕様がなかったのだ。

 

 自殺と聞いて、僕は初めて人の持つ業(ごう)を知ったような気がした。プライドのために命を落としてしまうこともあるんだな、と思った。

 

 ん?…プライド?

 

 その時、プライド、と思ったのは、だれかがそう言っていたから。実は意味もよくわかっていなかったし、今もそうだ。

 

 プライドとかアイデンティティとかじゃなく、全部ひっくるめて、僕らは幻想とともに生き、幻想を傷つけられて怒り、幻想を失って死んでいくのだと思うようになった。そしてもっとも幸福な幻想を希望と呼ぶのだと。

 

 牛鬼男の妄想世界も、かの文豪が自身を投影して描いた清らかな恋の物語も、自分にとってはまったく無縁のものと信じて疑わなかった。ところが…

 

 少なくとも「視力」と「趣味」の悪い娘が僕の前に現れた。

 4月の良く晴れた日の午後のことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 猫は段ボール箱に入れられてやって来た。10分ほど電車にゆられて、空いていたから見咎める人もいなかったけれどちょっと冷や汗をかいたという。

 

 実は前の晩に電話があって、(お願いと言いながらほぼ一方的な通告)お腹の大きくなった猫を環境の良いところに移したいからよろしく、アパートの横の草ぼうぼうの空き地があるでしょ?食べ物はわたしがあげるから…。

 

 虎毛の、野良にしては上品な面立ちのその猫は、まもなくアパートの部屋の外置きの洗濯機の中で、自分と瓜二つの虎毛ともう一匹シルバーグレーの子を産んだ。猫を運んできた彼女は約束通り、まめに食べ物を届けてくれたのだが、しかし…。

 

 当初は草むらで元気に跳ね回っている予定だった子猫たちは、母性あふれる母猫とともに、いつしか貧乏学生の住む狭いアパートの一室に居つくようになっていた。(外に出そうものなら、一晩中でもドアの前で啼き止むことがないのだから。)

 そして何より誤算だったのは、猫のほかに人間の娘がひとり居つくようになったことだった。…