第107話 勝保事類記 その3 | 野記読書会のブログ

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清朝末期に官僚を務めた人物が民国期になって、清朝時代に見聞した事を書いた『清代野記』の現代語訳。
毎週日曜日に4話づつ更新予定。
底本は張祖翼(坐観老人)撰『清代野記』(北京:中華書局,近代史料筆記叢刊,2007年)を使用。中華書局本の底本は1914年野乗捜輯社鉛印本。

 ある日、軍は同州[i] の境に駐屯し、忽然と参謀の面々に「今日の昼に食べた黄韮は非常に美味かった、夜は諸君と一緒に食べようと思う」と言い、座について黄韮のことを尋ねてみると、余った黄韮は臨潼[ii] において捨てて来たという。大いに怒って、すぐに料理人を食膳に於いて斬り捨て、明日の早朝までに必ず手に入れるよう命令したので、料理人達は大いに驚いて、早馬を往復させること二百余里、手に入れて供したという。勝保の贅沢ぶりはかくのごとしであった。

 馮魯川は山西省出身の進士で、刑部勤めから特旨によって盧州[iii] の知府となったが、都を出て赴任する途中で河南省により、勝保が軍に留まり御史中丞となるよう上奏したのだ。馮は出来た人で、高尚でこだわりが無く、流行りを追う事のない人だった。ある時、勝保と意見が合わないことがあって、決然と宿舎から去って行った。直に顔を合わせて辞めることが出来なくなることを恐れ、置き手紙を置いて勝保の下から去った。勝保はそれを見て大いに驚き、すぐに材官[iv] に命じて皮衣と銀二百を準備させ、早馬を仕立てて馮を戻ってこさせようとし、「もし連れ戻す事が出来なければ、お前を殺すだけじゃ済まないぞ」と言って聞かせるとともに、大略『この書が着く頃、あなたは韓信山でしょう、これは“雪擁藍関馬不馬[v] ”のようです、昔、都から退出するのを嘆き大きくため息した土地であります。あなたは軍事に長けているわけではありませんが、人品、人望があって学問においては当代で重きを成しています、したがってあなたを尊敬しており、あなたの人物や学問は皆の手本とするに足るものであります』云々と書かれた馮への書を持たせた。書を得て馮魯川がすぐに戻ってきたので、勝保はたいそう安心した。

 私の父親が私的に馮に「あなたはどうして、戻ってきたのですか?」と尋ねると、「勝保は自分勝手にほしいままのし放題ではあるけれども、文人を重んじているし、言っている事は誠の思いであって、その事に心を動かされたのだ」と言ったという。

 勝保の上奏文は往々にして自ら草稿を起こし、何かと言えば『先の皇帝陛下はかつて忠勇性成、赤心報国と私をお誉め下さいました』と書いていた、おそらく咸豊年間にあったイギリス軍との八里橋の戦い[vi] の事を言っているのであろう。また『漢の周亜夫[vii] は細柳に軍を布いた時、軍中では将軍の命令のみを聞き、天子の詔も聞かなかった』という三句も良く用いていた。これらの意図しているところは、太后は女性、同治帝は子供であって、それらに牽制されることを恐れたのであった。勝保が死に至る理由は知らぬうちに、ここに伏せっていたのである。

 西安に至った日のこと、臨時の駐屯所に向かい、輿を降りた時、冠の上の珊瑚の飾りが無くなっていることに忽然と気が付き、あちこち捜したが見つからないということがあった。識見のある人に言わせると、既に不吉な前触れであると知れたという。勝保の命運が尽きて数年して、有る人が路商から銭四百でその飾り玉を買ったというが、怪しいものだ。



[i] 同州:陝西省の地名。

[ii] 臨潼:西安(陝西省)の地名。

[iii] 盧州:安徽省の地名。

[iv] 材官:軍の物資の管理をしている者。

[v] 韓愈が左遷させられた時に、都から去る道中詠んだ歌を元にしている。

[vi] 八里橋の戦い:1860年、アロー戦争時、天津から北京に進軍して来た六千人の英仏連合軍と三万人の清軍が八里橋で激突、清軍は壊滅的な被害を受けた。奮戦ぶりを誉められたのであろう。

[vii] 周亜夫:漢代の著名な将軍。