粛順[1] は漢人を重視した。
漢人を重んじ、満人を軽ろんじたのはなんと漢人ではなく満人であった。粛順は驕横であったもののただ漢人文士だけは重んじ、人材を徹底的に捜し求め、一日中それに専念していた。不思議なことである。彼は満人官吏に対してはこれを奴隷のように扱い、本名を大声で呼び、罵詈雑言を浴びせる事を避けなかった。しかし、一たび漢人官吏に会えばたちまち恭しい態度に変わり、先生と呼んだり、某翁と呼んだり、某老爺と呼んだりした。彼が賄賂を要求するのは満人だけで、もし漢人官吏の物であればたとえ少しの物でも敢えて受け取りはしなかった。後の時代奕劻[2] 、載洵[3] の輩が誰からでも収賄したのよりもましである。それだからまだ人心は離れず、同治元年にはまだ中興の望みが有ったのである。