道徳的にありたいと思うのであれば、人のために工夫し自分のためには謀ることはしない。他人のために謀るのは仁であり誠である。自分のために謀るのは悪である。その大略を言うならば、まずは君主のために自分を捨てて、慎んで君主のことを思う事である。もし一点でも立身出世の気持ちがあれば、喩えていうならば給料を盗んでいるようなものである。

 

さて君主のために思うということは、国家が安定することを望むことである。まず、その職をしっかり勤めるのは当然のことながら、君主に過ちがあれば身を捨てて諫め、諫めを聞いてもらえれば身を忘れて喜び、諫めを聞いてもらえなくても、身を捨てられても起こることもなく、君主がいるから自分がいられるということを忘れるようであれば、君主のために謀り自分のために謀っていない。

 

佞臣はこれに反して、君主に過ちがあっても諫めるどころか、道理をつけてその過ちを増やして、もし諫める者がいたら君主を批判して、朝から晩まで君主の気に入ることを考え、功績もないのに給料をもらい、あるいは贅沢三昧して国家の難儀を見ることもなく、君主を悪の道に陥れ自分もそうなろうとしている。こういうのは君主を忘れて自分のために謀る。こういうのを国家の盗人という。常に盗むにしても限界というものがある。この盗もうとする行為には限界というものがない。ついには国を亡ぼすか、自分が死ぬ課まで続くのだ。

 

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いやそれは違うでしょう。自分のためだけに謀るのは駄目という事でしょうね。自分のためにも人のためにもなることを考えるのが筋というものです。

 

君主云々は武士階級の話で合って、商売人はそういう感覚は持ってなかったと思います。おそらく原著者は儒教の本を読みすぎたのではないでしょうか。

 

これを現代に置き換えると、給料泥棒というのはいます。今は明確な雇用契約とじゅぶ型雇用のように仕事内容が決められてきていますので、専門家であれば専門家としての仕事をしろよということになるでしょうか。ただ、日本は相変わらずジェネラッリストを重視する傾向があって、それはほとんど素人だよというようなことが平気で行われています。これは本気で改革していかないと、部下が疲弊するでしょう。