結局、道の意図を理解せず、仁義の道と言えば、それで何とでもなると思っているから、いきなり急な山を登るようように思ってしまうのだろう。そうではない。道は起きてから寝るまでの間にあり、特殊なことではない。もし善があったら善を褒めなさい。悪があったら悪を避けなさい。

 

この善悪をわけることからみれば、物を憐れんで悼む心が出てくるし、恥を知る事にもなるだろう。これは仁義を知る端でもある。この二つのものを推し及ぼして勤めるだけである。この推し及ぼすとは、憐れみ悼む心を広く他の人に広げ、恥ずかしい憎む心を自分に広げていくことである。こういうことを長く実行する人が仁義となり、道が行われて苦しむことはない。だから、道は一回限りになってはいけない。薬を飲むようなものだ。過ちは急病のようなものであり、改めるのに憚る必要はない。何ともならなくても、先ずは心掛けなさい。

 

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どんな悪人も何回かは善をするでしょう、どんな善人も何回かは悪をするでしょう。相対的数だと思います。それに加え、その善の度合い悪の度合いがどれだけ強いかだと思います。

 

昔の同僚にもそんなのがいましたよ。色々面倒見が良かったのですが、最後の最後でとんでもないことをやってしまってというのがいました。