老荘思想は仏法に並んで唐土では盛んである。儒学者もそれに惑わされ、政治が乱れ世の中が混乱したことが、様々な本に書かれている。わが国ではその害は百分の一である。その害は天地自然の理を重視するが、造化[1]の功績を最も重要な事として、人道のためとする誠を軽んじて、事物は無為[2]の虚を重視している。他人もなく我もなく、また天地もないとして払いのける。人のやることを汚泥のように見せて、五常を嫌い、気を養い生を保つことを重視し、天理の極致を尽くして人としての欲はほんの僅かもなく、その心は輝く鏡のように僅かな傷もない。これを名付けて無為の真人という。この言葉自体が広大ではあるが、自分が一身にかけて工夫してきたにすぎず、王道を知らないから、その結果は僅か一身に終わってしまい、害は天下を崩壊させるに至る。

 

今の時代に老荘思想を扱う者を見ると。世間を投げやりに見ていることを無欲と考え、身が休まることを好み、仁を執着、義を偏屈、礼を虚飾、智を私欲と考え、ただ天地自然の他はないと人国に言い切っている。

 

七情[3]が生じるのも人に備わっている理である。止まらないのは流水であるかのようである。やりたいようにやる。惰弱横着物にはいい訳になる悪説であるから、こんな輩が一人二人いると、それが世間では千人万人に流れ、その真似をして人は天地自然の理いがいないという。

 


[1] 天地創造のこと。

[2] 人の手を加えないで自然に任せる事。

[3] 儒教では、喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲。仏教では、喜、怒、憂、懼、愛、憎、欲。

 

老荘思想ってそこまで言ってましたっけ?そういう文脈で無為自然という言葉を使っているわけじゃない気がします。ですが、これは今でも通じるものがあると思いませんか?

 

「私らしく生きる」

 

これほど怪しい言葉はないと思っています。実際にこの言葉を発する人に「私らしくって何をしたい?どうなりたい?」と訊くと、まともに応えが返ってきた試しがありません。要するに、私がやることにいちいち文句を言うな、お前は黙ってろという意味でしかないんですよ。

 

さらにいうと「生きづらさ」という言葉は、本当に生活がきついのではなく、自分のわがままが通用しないというだけの話であって、しかも誰かから生きていることを妨害されているわけでもなく、察してちゃんであるとか、他人にせいにしたがる不思議ちゃんだったりします。

 

まあ少なくとも恵比寿屋さんが観察する範囲での話なので、異論はありですよ。