人には必ず知らなければならないことがあるし、同時に知らなくても困らないこともあるだろう。知らなければならない事とは何なのか、それは人として生まれては第一に天道天理を知り、人が人であることを知るべきである。

 

万物は天理で生じて、天道に養われているだけだ。人は天理に生じて天道に養われ、その点の道を受けて人の道を行うから万物の霊長として優れて貴い存在となる。こうして貴い存在となっていても、道徳の道から外れたら野獣と同じである。道を行うときは天道にも適い、神明と同じであるから貴い人となる。こういうのを根本を知るという。

 

天地は万物の父母であって、人及び物すべてを生み出し、それぞれに形が異なり色も変わり、様々な味が備わる。寒温、燥湿、曲直、大小を加えているだけである。万物も自分に有利なことをするわけではない。これが自然の天理である。天地の理というべきではあるが、地は天に従うので、地を略して天理とばかり言うのである。天道というのもこういうことであるから天地の身という意味である。

 

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今日から新しい本に入ります。序文もあったのですが、まあ面倒なので省きました。常盤漂北という人が書いているようですが、ちょっと調べた限りではどんな人か分かりませんでした。享保丑年なので1725年のようです。石田梅岩が生きていた頃の人のようです。

 

さて、心学では道=道徳は形而上学的なものという感覚が強いようです。イマニュエル・カントも典型的な形而上学的倫理の研究をしていました。もっともカントの場合は、自由意志前提となっています。心学も自由意思があるのか?というとカントほどは言ってない気がしますね。「人間とはこうあるべきものだ」から始まって議論しておりますが、そもそも「やっていいの?不味いの?」と迷うから倫理という問題が出て来るんだと思いますけどね。

 

そして何よりも、今どういう状態かの「~である」よりも「~であるべきだ」が優先的に議論されてしまうので、なんだかなという感じになってしまいます。心学ももっと応用倫理学っぽければ、世界で標準的なものになったかもしれませんね。