父親が厳しいと、体裁を作ろうと隠れて不憫がって、その子の機嫌がよければ悪いことは目に入らず「若いときは誰もがやること」と思っている。その子が三十歳か四十歳になれば親は七十歳ぐらいになっている。それでも若い人のやることだからと、昔乳房にすがっているときのような感覚で子供を扱ってしまう。

 

その大恩の深いことは、須弥山[1]や蒼海の深さに例えようがなく、実にありがたい話である。天地の間に真実は真より味方というのは、父母にしかない事だ。その中でも母のことは自分の身を忘れて可愛がるものだ。

 

それなのに子供はその気持ちを全く知らず、今時分の流行りごとをしたがる。まずは遊郭である。時々風儀に合うように、四方からはやし立てられ、自分こそは自分こそが訳知りであって、人はみな自分を重宝してくれる。よく自分を知っててくれて、よく分かっているのは遊郭ばかり。面白い世界ではあるが、遊郭の門に入るときは、胸の癪もたちまち治り、何故だか気持ちも晴れ晴れする。こうしてうかうかしながら金を遣いまくり、それから先は、いかに楽をして金を稼ごうかとばかり考える。

 


[1] 仏教伝説の世界の中心にある山

 

ありましてねぇ。創業者一族の上場会社で、業績不振から子供に代わりました。ところが、株主総会も経て正式に社長が変わったのにもかかわらず、「うちの子が」と親が出てくる。あれはみっともなかったですね。親はそういう気持ちになるのでしょうが、会社に関わる権利義務は全く関係ないですから。

 

で、よくみると自分も若いときに親に対して似たようなことをやってるもんですよ。だから余計に黙って子供にやらせればいいのにね。

 

本文では全く逆のことが書かれています。今で言ったら風俗営業法に関わる商売に出入りするようになり・・・というところでしょうか。はまっている人にきいたのですが、決して行きたくて行ってるわけじゃないみたいです。一種の義務感というか、習慣というか、そんな感じみたいです。