「見た目は生まれつきではありますが、心は賢いですから、賢い方に移そうと思えば[1]、移せないことがございませぬ。せめて父母への孝行をしようと、鏡で私の醜さを見るたびに、心は醜くならないように慎んで、自分の姿が汚いのを見ては、自分の心は潔くいたいと願っています。」

 

と涙ながらに話した。それを聞いた主人は、非常に感心して

 

「お前は見た目は悪いが、その心は実に清らかだ。その姿は今一つではあるが、その心は立派である。お前の心が美しいのを見て、見た目の悪さは気にならなくなった。」

 

といってその家の妻になった。夫婦は見た目に関係なく、ただ誠を磨いていたので、その家は子孫代々反映していった。このように誠があるときは、いかに見た目が悪くても、福の神には夜昼なく守っていただき、栄えるのだ。世の中の人は福寿を祈っていても、誠という元手を作らないから、困ったもんだ。

 

祈りても 験(しるし)なきこそ 験なり 己が心の 誠ならねば

 

誠という実がなければ富貴の花が咲くことはあるのだろうか。だから世の中の男女とも見た目や形や博学か、金銀芸能の花ばかり飾ろうとして、誠という実を心に結ぶことがあるはずがない。

 


[1] 『徒然草(上)』の「第1段 いでや、この世に生れては、」の一説

 

しかし、不細工だ不細工だってこの主人も相当失礼な奴ですねwというか、このノリが江戸文学だったりするのですが。

 

何をやっても上手く行かない人って、人を羨むだけではなく攻撃もやってたりするんですよ。しかも自分しか通じない正義を振りかざして。そりゃ助けてやろうなんて誰も思いませんがな。