『垂加草[1]』には、「わが神道の宗源は土と金にある。その伝えは悉く神代からの書にある。」と言われている。いわゆる土金の土は慎みである。金は神である。体の中にいらっしゃる神をよく敬って奉ることが重要だ。槌は叩いて固めるものであって土地を叩いて道の形を作り、福の神はそれを振り上げてお示しになっている宝土というのはこれの事である。

 

日本は天の神道をもって天下を治めるので神の国というのだ。しかしながら、今にして神道という名前だけなってしまっているようで、志のある者も正直としか言わないので、神道を学ぶよりどころを知らないのだ。ますます神道をよく理解しないで、正直の他に神道には教えがないと思っているところに、仏の名前を唱えれば極悪人も死んでから極楽に行けると言って、勝手なことをするので教えの道から離れて、世の中の人はみな頭を下げて拝み、腹ばいになって六字題目[2]を唱える人ばかりになった。日本人の中にいらっしゃる神を辱めて奉ることを理解せず、釈迦は自分の手柄だと我が国の神を粗末にして、仏ばかりひいきにするのはどうしたものだろうか。

 


[1] 山崎闇斎の全集として,門人植田玄節により編まれた本。

[2] 南無阿弥陀仏のこと。

 

神道って本当に難しいと思います。記紀の中には基本的に教えはありませんし、その他の神道五部書と呼ばれる神道学を勉強するには最低限必要な文献についても、仏教や一神教のような教えはありません。その意味では押しつけがましさがないのでいいのですが、天照の御神勅のように「鏡を私だと思って拝みなさい」の一文は、人間は神の子孫であり自分の中に神がいるのであるから、他人に頼らず自分で判断しなさいという強烈な自己抑制を求めているものなんです。こんなある意味厳しい宗教は他にないんじゃないかと思えてきます。

 

なので神道は神を感じる宗教で、一神教は常に神を意識し続けることを求められる宗教、仏教はその中間と恵比寿屋さんは思っています。

 

後段は浄土宗への批判ですね。安倍首相が殺害されたとき、国葬を反対したのは浄土系の宗派の坊主でした。喩え、この反対した人たちにとって悪人だとしてもですよ、坊主なら死者の安寧を祈るのが勤めだし、浄土系宗派の教義と思いますけどね。挙句に呪詛迄始めたとんでもないのもいました。私は総本山の管主であれば破門します。