金持であることは、余慶がこぼれてくるようなものであるから、人の出入りに伴うもので賑やかなものである。とはいっても、その人が貪欲で他人より非道のことをやって利幅を稼ぐことは、他人には一銭も分けてやらないのと同じである。このように不義をやって稼ぐ人は子孫は長く続かない。富んでいくに従って他人に物を施せば、人の出入りが増えて敬うようになるものだ。金を持っていても人付き合いを面倒がるので出入りがない、人を謗って嫌うので、浅ましい奴だという評価になって行く。

 

范文正[1]という人は、最初は貧乏であったが、後に出世して高官になった。このように金持ちになれたのは、先祖の積善のお陰である。自分一人だけその恩を受けるのは面目ないので、一門の人に田地を買ってやり、あるいは米や衣類を与えたと言われている。

 

今の人は金を持つようになったからといって、貧乏な親戚には目もやらず、出入りされると煩く思い、金持ちは貧乏人のところに立派な恰好で行ってはならない。皆外に置いて大人しい格好で入りなさい。

 


[1] あるいは范仲淹(はんちゅうえん:989―1052)。北宋の政治家,文学者。

 

積善はすぐには結果は出ない、自分の子孫あるいは生まれ変わりでその結果が出るぐらいの感覚でいなさい。悪辣非道なことをしても豊かな生活ができるのは、前世あるいはご先祖様の積善があったからで、それを食いつくすと貧乏になるというのを、以前の記事で書いた記憶があります。

 

そんな感じでいたほうが分かるような気がします。とは言え、すぐに結果が出るものもありますので、その点はしっかり頑張りましょう。

 

貧乏人を救済するのは、何とかしなきゃならないと思っている人には応援したくなりますが、無気力な人や他人のせいにする人は近づきたくもないですよね。最初の職場の街の雰囲気は、まさにブラックホールでした。あなた方の明日の飯の話をしてるんですよと言ってるのに、「儲かるならあんたがやればいい」とか「高度成長期に働き手を奪われたから、東京に養ってもらうのは当然だ。」と政治家が言うような地域でしたから。

 

そういう人を何とかしようと思ってもどうしようもありません。むしろそういうところは傷をなめ合う逃げ場所として、放置してあげることの方が愛情じゃないかと思い、最終的には砂漠で田圃を作る気はないと啖呵を切って辞めてきました。努力して水を引き込んでもみんな吸収されるか、蒸発するんじゃねぇ。