日本は神国であるのでどんな家でも神を祀っている。その上で仏教が流布されているので、どこの家でも仏を拝んでいる。その神は鏡に映るもので、鏡とは鑑みるものである。

 

さて神仏の恵みを得るためには正直を基本として、ほんの僅かであっても邪悪な事や酷いことをしてはならない。節分の時に恵方に向かって大豆を打つことである。大豆とは実のことで真の事である。邪なことを考えず人の道を進むことを豆で炒る豆などとも言われている。その実を内へ納めるを「福は内」という。福は幸いの事であり、その幸いは正直であることに由来している。「鬼は外」の鬼とは邪なことである。その邪なものを千里以上外に追い出すことを祝う行いである。

 

大した知恵のない人が、神仏がいないかのように言うのはとんでもない過ちである。もっとも神仏が自部員の心の中に現れてこなくてもその心の神は天地に光を和らげ、塵に交わる神から分かれて人間となった。

 

だから、和光同じく塵が自分の鎮座しており、自分が邪正を鑑みれば、人が知らない隠れた悪、非道であっても言い逃れができない。勿論神前の鏡はその理屈であり笑って向かえば笑い。にらめばにらんで映る。正直に祈れば、正直の頭に宿って恵みがあるだろう。

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神棚にある神鏡は、天照大神の神勅で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、「鏡を私だと思って拝みなさい」というのがありますが、この話を餓死国人に話をすると大いに驚かれます。特に一神教は、神と人間は全く別ものであって、神すべての人間の中に宿るという発想はありません。入るとすれば悪魔か。

 

だから他人を尊重するときの態度が大きく変わってきます。大航海時代では「異教徒は悪魔に毒されているのだから、人間ではない」なんてことを本気で言い出して、植民地化して奴隷化するなんてことは神から与えられた当然の権利、むしろしなければならないぐらいの勢いでした。

 

流石にその伝統を引き継いでいるのは、イスラム教原理主義者ぐらいですかね。一神教の一種共産主義も似たような行動をとったりしますけど。

 

だから門倉了以みたいな異民族であってもみな平等発想をする人は、あの時代では画期的でした。