身分が高かろうが低かろうが、珍しい器を愛でるように心に思いを深く、仁義を大事にしようとする気持ちがあれば、この人たちの君子が治める国はますます発展する。毎月のように賢人を出すだろうし、君主は賢人を愛して、臣下が道徳を学ぼうとすれば、国家は安泰である。

 

万里小路従一位、大納言宣房の長男である。従二位中納言で君主は諫めを聞き入れなかったので、すぐに遁世した。日本の中古の賢い臣下であった。至言が多く、書物になっている。『天鏡記』と呼び、この発言は彼の本の中に記載されていないので、ここに書いた。

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『天鏡記』について探してみましたが、見つかりませんでした。彼は、『太平記』では、藤房は建武政権への批判者として書かれているようですが、実際何があったのかは分からないそうです。

 

しかし、「珍しい器を愛でるように」というのは、オタクの匂いがプンプンします。この当時の雰囲気はそうだったのでしょうけど。

 

さて、賢人はどんな社会でもどんな時代でも一定の割合はいると思います。問題は、その賢人がその社会で発言できる状態か、発言してもそれを社会が聞こうとする状態にあるかの差が大きいのではないかと思います。例えば、身分が違う、生まれが違う、立場が違うということで、誰も聞こうとしない、あるいは上に立つ人がそれを見いだせない、見出しても表に引き上げてやれないような社会というのはあるものです。

 

例えば、儒教に『礼記』という経典がありますが、あれはまさに同じ職場でどの立場の人がどこに座るか、誰が誰に物を言っていいのかが厳密に決まっています。こういう社会では上手く行かないでしょうね。

 

日本は同様に儒教の影響を受けていると横の国の人は言いますが、彼らは形式を取り入れましたが、中身は取り入れなかったのではないか、それが大きな違いだと思っています。

 

儒教を批判する人は、前近代の遺物の象徴のように言いますが、それは『礼記』については同意しますが、他のものは読んで実践する価値は十分にあると思いますよ。