我が心が清いときは、天の心も清い。地の心もよく受ける。私の心が濁っているときは、天地の心も濁る。だから天地の心が私の心と理解して清くあろうとする人は、人が見ていないところでも慎んで誡める。我が身の血の流れ、この心を守って君主に仕え、目下の者を恵みなさい。

 

興福寺の本願[1]の氏長者[2]で、帯刀資人[3]を四人授かり、大納言従二位右大臣になる。養老二年に太政大臣に任ぜられるが受けずに断った。母は車持国子の娘である。養老四年三月一日病に臥し、大臣は病から救うために、度者[4]九十人を賜った。恩赦を行い、京の四十八寺に命じて、毎夜薬師経を誦ませた。同月三日に死去、六十三歳だった。十日に太政大臣で正一位文忠公の名を頂き、淡海公の名を追っていただいた。

 


[1] 創建の願主のこと。

[2] その氏族の中で最も官位が高い者が就任し、氏神を祭祀する氏社、先祖を弔う氏寺・菩提寺の管理権、またその財源を掌握することで氏人を統制した。

[3] 皇族や貴族に位階や官職に応じて支給され、護衛や雑役に使われた下級官人。

[4] 度者(どしゃ)は、出家を許された者のこと。

 

天地とは言ってますが、世間今ならコミュニティとした方が分かりやすいような気がします。どうも身の回りが険悪な雰囲気であれば、それは自分がイライラしているからだということでしょう。

イライラしている人が傍にいると、自分もイライラしてきますが、本来は自分がイライラしているから他人までイライラさせるところはあります。

スーパーエゴみたいなものでしょうか。

どんなアホが喧嘩を売ってきても、その喧嘩に乗らずさらっと流す方が良さそうです。