近年は日本国内で災害が多く、山津波あるいは大雪が降って、田畑が土砂で埋まってしまい山火事や土砂などが流れてきて田畑を荒らした。洪水は田地は言うまでもなく、家々を流し、その地方の苦しみを考えてやらなければならない。

私の家業の商用で二十歳過ぎから、北国と東国その他の地方に行った。その土地を巡って農業の苦しみを感じることが多かった。寛政九年[1]午年八月に尾州名古屋に行ったときに、中仙道を通り、墨俣川と押越川を通ったときに川原を見たが、前年の洪水で飛騨信濃で山崩れが起き、水が出て洪水となり人家はもとより全てを水に流してしまった。往来の旅人に助けを求めていた。私にも助けを求め、持ち合わせの銭五百文をそれぞれに分け与えた。

その水難の様子を知ろうとして、どこの地方から来たのか訊いてみると、飛騨出身だと答えた。故郷までの距離を尋ねると、約二十二三里であるという。

洪水で川筋が二三里ぐらい一面水浸しになったようで、住居と一緒に流れてきたという。父母夫婦兄弟子孫で助け合いようがなく、私は幸いにも家の屋根にまたがって、しばらくして岩のようなものに衝突し、家はあっという間に崩れてしまった。その場に合った、木柱や戸板につかまって、海に出てしまったかのようだった。昼夜生きた心地がしなかった。そんな状態で、大木を見つけそれにしがみついて命を助けて欲しいと、神仏に祈るしかなかった。幸いここまで流れてきて助かったのだが、国は遠く故郷に帰るにも旅費はなく、日々の食糧にも困り旅人に少し銭を貰って、故郷に戻ろうと思う。

朝晩に願っているが、故郷は跡形もなく川原となっておるだろうと思と、ただ食べものをねだるしかない。父母兄弟もどうなっているか尋ねなくても、涙とともに語るのを聞いていた。実に哀れなことではないか。

 


[1] 西暦1797年。

 

今も昔も洪水はあるものです。私も洪水を経験したことがあります。

朝五時に近所の人が起こしに来たのですが、何のことかと思うと既に外は水浸しでした。車のタイヤの半分近くまで来ていて、ぎりぎり車内までは水が入る寸前でしたが避難しました。

ところが、そこからが大変でした。水自体は大した深さはないのですが、流れがあると結構大変で何度か転び流されそうになりました。あの時は数人の死者で済みましたが、堤防がなかった時代だったら、おそらく1000人単位で死者が出ていたと思います。

その後が大変で、上流でペットボトル回収業者が水没したようで、おびただしいペットボトルが土手に散らばっていたの覚えています。

江戸時代だったら水死体が・・・といったところでしょう。