最近、大坂の道頓堀の何とかという小息子がいた。彼は生まれつき誠実で家業を嫌がって、必ら学問の道を志し、四書五経を素読と講釈を聞き覚え、たまたま学者の興に乗じて遊ぶことはあっても、納得いかない事には質問して、間違っても女形芸子の類で遊ぶことはなかった。

もとより三弦、胡弓は勿論、楽舞にいたるまで、遊芸と名がつくものには一切稽古せず、同じく花柳街の友人とは付き合いもせず、ひたすら明けても暮れても本を読み、身持ちの悪くなるようなことは一切しなかったので、両親は我が子ながら滅多に素行が悪い事でもなければ、さすがに注意することもせず、彼の思う通りに稽古をさせておいた。有名な先生に学んで、自他ともに学んで数年、日夜努力し続けた。たまたま先生のところでふしだらな友人を見ては、その人を諫めて「その家に生まれたら商売に貴賤はない、せめて素行は嗜んで慎むのが人間の道である。」と忠告した。その友人は笑って、「茶屋の息子たるものが花柳の仕事を勤めず、子曰く学問使いになって女郎の扱いをならうのか。お前は、唐へ行って茶屋をして七賢人を客にしたらいいさ。俺の身持ちの悪さはこの谷の常、お前みたいな親の商売を嫌がって、家を継がないのは不孝ではないか。」と馬鹿にした。するとこの息子は、にっこり笑って言った。

「お前な、学ばなければ聖経に根拠があることが分からんだろう。唐土の伯夷と叔斎[1]という兄弟は、昔の賢人です。その父親が国を叔斎に譲って継なさいと遺言しましたが、兄の伯夷を差し置いて家を継いだ例はありませんと辞退しました。兄は父の遺言を無視して、自分こそが国守となる義はあるのだろうかと、弟が継ぐべきだと言った父の命令を重んじた。弟は兄への悌[2]の道で、二人とも国を去って山に隠れた。こういう事を聖人の孔子は賢人であるとおっしゃったのです。さて、その国の中息子の仲遼という人を立てて、孤竹[3]の国守となったのです。こういうのを仲遼が国を治める事を知らないのは、伯夷と叔斎を不義理であるというのは、何も知らないからなのです。私は伯夷に到底及びませんが、幼いころからこの家業が好きではなく、よく学んで他の家業を目指すつもりはあるのですが、家を継ぐべき弟が多くいるので、これを不孝といいますかね。はたまたこの家を出てもし有名になるようなことがあれば父の汚名をそそぐのと同じです。たとえ身はこんな遊郭に穢れても心は常に孔林[4]にいたいと思います。こういうのを聖人はどうしてお叱りになりますか。私がこの花柳街にいながら学問をするのは、あの屈原[5]の漁夫の言葉で、世の中の人が濁ってきたらその泥を濁らせてその波を揚げ、世の中の人が酔えばその粕を食べてその汁をすする意味を学ぼうとするので、少しでも道にかなうでしょう。

 


[1] 伯夷(はくい)と叔斎(しゅくせい)は、殷時代の兄弟で儒教の中で聖人とされている。

[2] 目上の人に対して優しく接する事。

[3] 孤竹国(こちくこく)は、殷周代から春秋後期に現在の中華人民共和国河北省唐山市に存在した国家である。

[4] 孔子とその一族の墓所である。

[5] 屈 原(くつ げん、紀元前343年 - 紀元前278年)は、支那の戦国時代の楚の政治家、詩人。

 

逆はよく見ます。立派な親なのに何でこんな子供がみたいな。

こういう事例はないわけではないですが。