銭は仁なのか不仁なのかを議論している者がいた。一人が言うには、

 

「銭ほど不仁不義なものはないな。なぜなら、銭が集まる家を見ると多くの家では、慳貪不仁で慈愛の心はない。仁愛がある人で金がある人は稀である。銭は人に欲を起こさせ邪念を栄えさせ、不義の行いをさせて一生を誤るものが世の中には多いよ。あなたは銭を乞いている、慳貪不仁の家に集まることから考えると、不仁な者の味方をして、仁愛の深い者から立ち寄らないから、銭というのは不尽慳貪であることが分かるだろ。」

 

一人が言った。

 

「銭ほど仁なものはない。飢えや寒さから人を救い、貧窮で倒れようとしている者を助け、禍を転じて福となし、凶を変化させ吉とするよ。絶えてしまうものをつなぎ、廃れるものを興し、疎遠になっている者を親しくし、争論をなだめるまで、すべて銭の力だよ。銭が不仁だったら、どうしてこんなにいいことがあるかい。」

 

方兄先生は、これを聞いて言った。

 

「不仁者は銭を集めて、銭を使うことをしない。だから富が溜まる。仁者は銭を集めるのを疎かにして、使う方が早い。だから富む事はない。となれば、銭は元から無情無心であって、仁とか不仁とかの心はない。銭は世の中を回るが嫌な家があるわけではなく、好きなところがあるわけではない。仁とか不仁とかは人が行うことで、銭は関係ないとはいっても、物が集まれば必ず神がある。銭神が仁を好めば不審な者のところから出ていき、仁者の家に来るはずだが、そうではない。不仁慳貪な者の家に集まるのはどうした事か。じっくり考えてみると世間は義理の境である。」

 

今は変わって利益への欲望が境となると親子も利を争って、骨肉兄弟も財宝を論ずるのは今に始まったことではない。貪欲な者は本当に銭を愛しているのではない。自分の身だけを愛しているのだ。我が身に替えても銭を愛するという貨殖者は少ない。たとえ、数億万貫の銭があったとしても、皆ことごとく銭好きではあっても銭持ちではない。本当の銭持ちは銭を愛して他人に恵む気持ちも深い。だから銭の力を借りて仁愛を施し、世間に銭を融通することで、大きな徳を現す。銭好きは無駄に錆びさせて蔵の中に閉じ込めておいて外には出さない。銭の流通の足を縛ってその徳を無駄にして、虚しく銭としての役割を果たさせない。これは本当に銭を愛していないからで、こんなことを銭に憂き目を合わせるのだ。こうなると貧者は銭というのは偏ると恨むが、銭の方よりではない。人が偏っているからだ。だから、銭には仁も不仁もない。

 

萬暦通宝の霊貨を知る人には、その徳を現すだろう。銭好きはこういうことを考えなさい。

 

明 十四代 神宗(万歴帝)
万歴4年(1576年)始鋳

 

金持ちを嫌う人っていますよね。確かに言葉は悪いですが、成金はエゲツナイ金の稼ぎ方の上に、ケチが多いです。

 

一代で金持ちになった人は、金の遣い方を理解していないので、そういう感じになるのでそう。ある人の話では、公民館の建て替えの積立金で寄付を集めていたところ、一般人からは2万円、その地域のあるお医者さんからは5000円だったと。本当かどうかは知りませんが、町内会長の奥さんが言いふらしていました。

 

医者弁護士は昔は金持ちの象徴だったから、余計に金を出してくれるのだろうと期待していたのでしょうが。この5000円のお医者さんが金持ちか貧乏かは知りませんが、こういう感じで恨まれるのでしょう。

 

あの家なら金を持っているだろうと、かなりの寄付要求が来るのだそうです。でも本当の金持ちはこういうことの扱は慣れています。少なくともこういう所で恨みを買うような金の出し方をしませんし、中途半端な金を出すくらいなら最初からお断りします。