人は器のようなものである。一升入る腹がある、数百石が入る腹もあり、さらには万石が入る胸中がある。こういうことから器量という。ことわざに、「心の程の世をふる」ということも、その人の器量の大小や広狭によって、境界が異なるところを言う。

 

ここにほうろく[1]を売る者がいる。ある金持ちの家で一枚のほうろくを売ったときに聞いた。

 

「旦那さんはどんな商売をして、こんな裕福な暮らしをしているのでしょうか。」

 

主人は答えた。

 

「私の商売は利益をなるべく少なくして、千貫の商品でもわずかに百銭の利益を得て生産してます。別に手段はない。」

 

ほうろく売りは心から感心した。主人は不思議に思って、その理由を訊いたところ、ほうろく売りは

 

「私は、あなたの苦労がどのくらいだろうと思うと哀れになります。千貫のうちわずか百銭の利益を得ようと明け暮れて苦労を思えば、悲しみに堪えません。さて、私の商売はほうろくを三銭で買って六銭で売って、半分の利益です。千貫売って千貫の利益が得られるはずなのですが、のんびりと生活しています。旦那さんの商売は千貫売って僅か百文の小さい利益を得ながら、こんなに裕福に暮らしてらっしゃる。実に不思議です。」

 

すると主人は言った。

 

「大山は土壌を選ばない。だからその高さになるのだよ。大河が滔々と流れるその源はわずかに谷間を滴を集めたからだよ。私も最初から富裕ではない、貧しかったけれど百銭の利益を千貫から得られるように収斂したのだ。しかし、これも毎日数万貫の商売をしているからで、百銭の滴を集めて大河にしてこの勢いは止むことはない。あなたの商売は大きな利益がありそうなものだが、千貫の商売をしたら約1年半、大体五百日で、私の半日の商売にもならない。こうしてみれば、大きな利益は却って私の小さな利益の十分の一にもならない。貧富の違いはこれなのかもしれない。大きな商売で小さな利益は、積もって富を作り、小さい商売のところに大きな利益は限界がある。ならば、ほうろくでどうやって樋が得られるだろうか。」

 

と、千両の小判を出して見せれば、そのほうろく売りは気絶するかと思うほど驚いて帰って行った。千両の金を見て顔色を変えるあたりが、の度量がない事の現れである。

 


[1] 焙烙(ほうろく)は、素焼の土製の平たい炒り鍋 。火にかけて塩,茶,ごまなどを炒るのに使う。

 

人間には器の大きさに違いがあります。この年になってくると、この子供は出世しそうだなとか、頭はいいけど使われるだけで終わりそうだなというのが何となく想像がつきます。

 

人の性格というか、倫理感というか、慣れというか、あれは一体なんでしょうね。

 

商売人として重要な事、それ以前に人の上に立つ人にとって重要な事は、この話にも出てくる「動じない」ことでしょうか。いちいち細かい事で怒っていたり悲しんでいたりしていたら、体が持ちません。客にとっては常識、でも世間には非常識な事がありますが、そんなことが相手に伝わってしまったら商売になりません。

 

ある意味鈍感力が必要なのかも知れません。