東の方に稼いで豊かになった者が、一人の賢い者を雇っていた。その勘者は常に算盤を枕に、主人のために役に立つことばかり考えていたので、その家はお金に困る事は特になかった。主人は非常に喜び多くの手代を集め、勘者の仕事を褒めた。すると一人の手代が天を仰いで大いに笑ったので、主人は怒って言った。

 

「お前、どうして笑った。」

 

手代は席を正して答えた。

 

「私の故郷では大きな池があって、利徳を受けております。他国のしくじり者がこの池の前を通ってみると、鯉や鮒や雑魚が池にいっぱいいる。この池の主に言うには、私は魚取りが得意であるだから雇ってもらえないだろうかというので、池の主は喜んでそのものを雇い、奉公の始めに魚取りさせてみました。舟を用意して網を用意して連れて行くと、その者は池のほとりにいて、この池で魚を取るというと、池の主は不満気で私が思うのと随分違う。お前の魚取りは海川で魚を捕まえて私に貢献するのかと思ったが、そうではない。この池は本来私の池であるのでこの池の魚を捕まえることは、お前の力を借りないで、自分自身の網で十分だ。お前は私には役に立たないと辞めさせました。ご主人様は賢い者を役に立つとお誉めになりましたが、私から見ればあの賢い者は池の魚を取ろうとする男と同じです。この家の中にある金銀は勿論、その他の諸道具や釜の下にある灰まで、ご主人様の物です。多くいる手代は皆ご主人様の家来で、ご主人様の恩を頂いて生活して、ご主人様の為に苦労するものです。だから、あの賢い者は家で働く者をひつめ、普段の食べ物や衣類までを減らして、ご主人様のために大きな利益あるようには思えますが、後ろから見ますとご主人様の手足の肉を裂いてご主人様に食べさせているようなものです。もしあの勘者が他から別から稼いでご主人様の利益に貢献しているならば大忠ではございますが、家の者をひつめ下人や従者の痛みを無視して、ケチ一辺倒であるから、家の者はことごとく口では言わないものの、腹の中では恨みを隠し持っています。これがご主人様の家の大きいな心配事でございます。ですから、世間では貨殖者の名前をいただいておりますが、普段の暮らしは極貧同然です。一般的な人が生活するには、それぞれの分限があります。富貴ならば富貴として振舞、貧賤なら貧賤として行う。これが聖人の教えです。ご主人様は、貨殖者の身でありながらその行いをしておりません。あの賢い者が井の中の蛙の考えをお誉めになりますが、それがおかしいのです。」

 

というと、主人は納得してその賢者を解雇した。

 

手代の一言が正元通宝であろう。

 

 

コストカッターは所詮コストカッターなんですよ。顧客満足とか売り上げを高めるとか、そういうのには向いていません。

 

某社では外資系の傘下に入り、社長が送り込まれましたが、それから十数年経ちますけどまだ社長をやっています。赤字から脱却したのですよ。

 

で、最近に商品はどうもろくなもんではありません。私の車は3回もリコールを食らいましたし、サスペンション4本8万キロで壊れました。今までこんなことはなかったです。

 

賢者のように見えて、あらゆるところで賢いかと言うと赤字から抜け出す点では賢者ですが、もう次の段階に移ったのですから社長交代が望まれます。