義理と褌(ふんどし)

 

無くてはならない喩えです。

 

今は、義理というと嫌なんだけど仕方なくやらざるを得ない事を指していることが多くなりましたが、それはあくまでも反語的な意味で使われています。

 

本来は、正しい事でかつ理屈が通っている事を指しています。これは絶対になければならないものですね。人との関係で挨拶をするとか、約束を守るとか、世話になった人にお返しをするとか、そういったことのようです。

 

こういったことは日本だけに限らず、どこの国でも文化でもある話ですが、日本の場合は時間軸が変わります。日本は長期的関係を重視しますので、こういった挨拶に限らず取引も義理の概念に入ってきます。

 

ところがヨーロッパは違います。1回1回の取引関係で終了するという前提に立っています。よほど仲のいい友人同士でもない限り、そこで終わるのが原則です。これは遊牧民の流れを汲む人たちの発想でしょうね。

 

ある人の紹介で会社で働くようになりました。そのときの挨拶だけで彼らは終了します。なぜなら、会社とその人の契約であり、紹介した人はそこで終了だからです。だから、転職しても紹介した人に挨拶すらないということはよくあります。最初はカチンときましたけどね。

 

支那大陸も似たような感じです。儒教であれだけ義理が大切だと訴えても、実際のところは血筋関係者、特に親子関係兄弟関係は義理を重視しますが、社会やコミュニティという単位ではかなりドライです。

 

朝鮮半島では、義理を本当に素早く取引を終了させるような感じすら受けます。文化的に近いと言われることがありますが、全く違いますね。

 

日本の方がこの点特徴的と考えてもよさそうです。

 

なぜか?日本は国境が海で囲まれており、言葉が通じない蛮族が入り込むことがほとんどなかったし、また海外に逃げ出せるようになったのもここ150年ぐらいの話です。嫌でも近隣住民との関係をよくしておかないと、自分が生きていけない状況にあったからでしょう。

 

稲作農家から勤め人の人口が増え、嫌なら縁を簡単に切れるようになり、よほどの田舎でない限り困るようなことは無くなりました。

 

しかし、特殊な業界ではすぐにばれますよ。