一を聞いて十を知る

 

最初から思いっきり日本的発想です。日本社会は、社会学や民俗学的にいうと文脈依存が高い社会と言われています。文脈依存というと意味がわかりにくいですが、物事が起きた時その背景が分かっていなければ理解できない事です。

 

例えば、中学校の時に習った「うなぎ文」です。「私はうなぎ」と言ったとき、演劇で言った場合はその役柄を指しますし、飲食店で言ったときは注文内容を指します。純粋に文法で考えると、全く意味不明な文です。

 

こういうことは、普通の会話でもおきます。日本語は主語がなくても会話の流れから通じますが、インドヨーロッパ語族では主語によって動詞が変化します。英語はいちいち主語を入れなければなりませんが、主語がなくてもゲルマン系やラテン系の言語は、動詞の変化で誰の動作なのかが分かります。さらに、男性女性中性名詞で、単数複数、所有格、目的格・・・と冠詞が変化します。日本語で言うと、「て」「に」「を」「は」に相当します。つまり「誰が」「何を」を明確にします。

 

ところが日本語の場合は、そういう変化はありません。しかも丁寧に話そうとすると、さらに曖昧になります。加えて「うなぎ文」ですから。

 

一般的には中国語も強度に文脈依存度が高い言語です。まず、単数複数形、過去未来形、名詞、形容詞、動詞の変化がない。しかも清の時代まで、句読点もなかったので、どこできって読めばいいのか分からない。同音異義語が無数にある・・・全て文脈で判断するので、日本に留学して一旦日本語の変換して四書五経を理解する方が分かるという不思議な現象が起きるそうです。

 

こういう文脈依存度が高い社会だからこそ、一を聞いて十を知る事が出来るのでしょう。

 

この諺が、そこまで意図しているとは思いませんが、常に何が起こるのかを予測しながら生活しなさいという趣旨かなと思います。

 

あいまいな日本の私