人は心に風雅を持つことが生涯の楽しみとなるだろう。紀貫之が書いた『古今和歌集』の序文に、「梅の花と鶯、水辺に棲む蛙の声を聴けば、生きているものとして歌を詠まないわけにはいかないだろう。力を入れないで天地を動かし、目に見えない悪魔ですらしみじみと感じさせ、男女の仲を和み、武力を持たない者が心を慰めるのは歌である」と書いてある。

 

だから、和歌を詠まない人でも、志は優しくいたいものだ。風雅というのは、鶯や蛙に限った事ではない。全ての鳥獣の声を聴いて、「ああかわいらしい」と愛情を移入することであろう。例えば、不如帰の声に、短い夜を嘆いて待つ松虫や鈴虫の音に夜をいとおしく思い、あるいは庭に小松を1本植えて、鉢に石菖を一株入れて、山や海を見立てて眺めて楽しめば、自然と目の前に景色を望む気持ちがする。

 

さて、旅に出て川の流れを見て、何の気にもならなければ面白いことも楽しいこともない。偶然に雨にあえば、嫌な気がしてしまう。そうなれば、歌人が趣深く詠んだ雨であっても例外ではない。皆これは心の持ちようで楽しみとも苦しみともなるものだ。名所旧跡であっても同じである。

 

どこの浜辺にでても賤しさがあっても、そのように見ない事が風雅というものであろう。花の陰に汚いものを見て怒ったり、腕をぶつけて大声を出したり、月の下にあるものに不快感をあらわにしたり、大酒を飲んで庭に立ちはだかることを花見や月見と言ってはならない。花は咲いて散るときが、見ごたえがあるものだ。

 

月も山から出るぐらいや傾いて入っていく様子が、歌を詠むのに一層よいものだ。そうじて、月や花に限らず全ての始まりと終わりを意識すれば、生涯の楽しみも多く自然と悪い考えがなくなり、苦しみも無くなるだろう。苦労が無くなれば、長生きする。そうなれば、先祖をよく祀り、来世の生活も心静かに願えるだろう。

 

これがすなわち人として生まれた価値があり、神の恵みもあるだろう。よく慎んで、遊んで暮らしてはならない。

 

 

商売で本当に成果を上げる人は、そこだけではなく風流な思考を持っているように見えます。

 

そこだけに執着せず全体を見渡せて、何気ないところに気が付くか、そういう能力が大きいのでしょう。

 

一方、見栄を張ってこういったことに手を出そうとすると、他人の評価ばかりが気になって、本当に自分がどう感じたかが訳が分からなくなっている人がいます。これは痛々しいばかり。

 

自分が感じたことを感じたまま表現できるようになるのが重要な事のようです。