子供達に伝えたい話。
今年還暦を迎えて思う。「最高、本当に幸せだった」。
今だから言える。振り返ると苦しいことばかり、苦しくて苦しくて、何度も逃げようと思った。でも、この歳になって、振り返って思うことはやってきて良かったということ。
あなた達は壁に当たった時、乗り越えられる力を養えていますか。
「夢の実現 ~努力は裏切らない~」
本日の理学療法士学会におけるソフトボール元全日本代表監督、宇津木妙子さんの講演の冒頭である。
人生を振り返ったとき、「自分の生きた道は最高だった。」僕もそう言いたい。
全ての努力が報われるとは限らない。しかし、努力をせずには言えない言葉だ。
「夢の実現、努力は裏切らない。」
前向きな言葉で僕は好きだ。
そして、子供達に、夢を持つこと、努力することへの希望、大きな壁を乗り越える力を与えられる言葉だとも思う。
だからこそ、身近な大人が自分の生き方をもってそれを子供に提示しなくてはならない。
辛いとき、それは自分が戦っているからだと思うようにしている。そう子供達にも話してきた。自分が戦っている証拠なんだよと。
逃げればその苦しみから逃れることはできる。しかし、そのあとに何が残るのか。いずれ来る苦しみから、いつまでも逃げ続けるのか。
辛くて、苦しくて、苦しくて逃げ出したくなったとき、逃げ出さずに戦い、そのあとに訪れた感動を幸いにも知ることができた。
生徒の成長を感じ、卒業させたときのこと。
患者さんを退院させて、元気な姿を見せてくれたこと。
努力せずに得られたものではない。
冷めた人生でなく、熱い人生を。
大きな背中で、夢を語れるようになるために努力したい。
改めて強く思った。
以下は記憶にある限りの本日の講演の記録です。かなりの長文になりますが。
小学生時代、勉強が不出来で、授業参観に来た母親に恥ずかしいと言われた。子供心に強くあったのは、褒められたいという気持ち。勉強はできなかった。でも、スポーツはできた。
「人間は皆違う、一つでもいいから、自慢できる何かを持っていろ。何でもいい、一番をとってみろ。」顧問にそう言われて中学でソフトボールを始めた。このときも心にあったのは母に認められたい気持ち。
入部したら顧問も先輩も厳しい、理不尽なことも多かった。当時は体罰もあった、そして雑用ばかりの毎日。
3年になり、夢、目標ができた。県大会優勝。それができるまで休まず練習しよう。皆で決めて走り出した。それから一日も休まず積み重ねた練習の日々。それでも勝つことはできなかった。「あんなにやってきたのになんで。」それでますますソフトボールが好きになった。
高校生になると日本一を目指した。
毎日毎日、一生懸命に練習、雑用に励んだ。何をしても先輩に叱られ、反発してチームを離れたこともあった。戻ると自分の居場所はなかった。朝早くに自主練をし、あとは道具を並べ、草をむしり、雑用ばかりだった。
一ヶ月後の試合、スタメンに自分の名前があった。試合に出られたことより、ようやく皆と練習ができることが楽しみだった。しかし、自分がレギュラーに入るとそれで外される子がいた。それからはその子からの嫌がらせが続いた。
何度もやめようと思った、もういいでしょ、自分に何度も聞いた。しかし、自分はソフトボールの特待生だから、部活を辞めれば学校を辞めることになる。それでは母に迷惑がかかる。辞めることはできなかった。
だから、その子が許してくれるまで頑張ろうと思った。高校一年のその日から、60になる今まで、一日も練習は欠かしてはいない。それが私の願掛けになっている。やれるまでやろうと。
3年になり、どうせなら優勝しようと新たな夢を目指した。同級生は力を貸してくれなかったが、朝も夜も練習を続ける背中を、後輩が見ていてくれた。
そして、国体で準優勝。監督は初めて褒めてくれた。
試合後、同級生に呼び出され、今までごめんねと言われた。私は、「あなたのために練習したよ、ここまで強くなれたよ。」そう言えた。
そのとき、一人のためにチームがあるのではないことを知った。人に迷惑をかけると自分も周りも傷つけることになる。やるのも自分、諦めるのも自分、高校ではそういうことを学べた。
そのままユニチカへ入社した。社会人一年目、東日本ナンバーワンのピッチャーと共に企業スポーツの道へ。新天地へ向かう新幹線、監督から一言「お前はピッチャーの付録だからな」。
新幹線、指定席をとってもらったが、座らなかった。座れなかった。ずっとトイレで泣き続けた。せっかくプロになれるのに、付録ってのはあんまりじゃないか。それはすぐに「見返してやろう」強い気持ちになった。
15時まで仕事して、それから練習をした。プロと学生の差は歴然だった。今まで前に飛んでいたボールが飛ばない、捕れていたボールが捕れない。私は、ソフトボールがヘタクソだった。
5月に家族が来た。会いたかった。高校生との練習試合。その試合にも出られなかった。
話が違うじゃないか。そう監督に抗議をした父。娘さんはいい選手だ。すぐにでもレギュラーで使いたい。そう言っていたはずだ。今日、娘と帰ります。社会人でソフトボールをすることを、父は反対していたのだ。この中で、ようやく1ヶ月やってきた。3年で結果を出すからと説得した。
そのとき初めて勉強した。学生の頃は全て監督のいう通りにやってきた。監督が怖かったから。しかし、プロでは基本とプラスαができないと通用しない。受け身だった自分が変わった。それはソフトボールだけでなく、仕事に関しても同じだった。
プロとして過ごしたそれからの13年間。これだけ練習した選手はいない。仕事はそれ以上にやった。
郵便物の配達と、木造の寮のトイレのつまりを掃除するのが自分の仕事。過酷だった。私はソフトボールでこの会社に入った。なのに何でこんな仕事をしないといけないのか。仕事をすること、お金を稼ぐということ、企業スポーツをすること、その現実と大変さを学んだ。
そのあと仕事は変わり、寮を管理するようになった。寮生との生活、ルールや時間を守る、お互いを思いやる。どうしたらうまくいくのか、本気で向き合った。そこで人を学んだ。
満足のいくプレーができなくなり、13年間のプロソフトボールプレイヤー人生に幕をおろすことになった。
仕事はバリバリやっていた。しかし、上司からは、お前はソフトボールをするためにここに来た。仕事も辞めるのが筋ではないか。それが企業スポーツをやるということだ。
企業スポーツの厳しさを最後まで味わうこととなった。企業でスポーツをやるということは、勝たなくてはならない、そして愛されなくてはならない。負けがこめばいずれは廃部になる。愛されなければ声援は送られない。いいときはみんながやってくる、悪い時はみんなが離れていく。厳しい世界であった。
引退してしばらく、日立から監督が決まるまでの間、トレーニングコーチをやって欲しいと頼まれた。練習も、自分が積極的に走り、常に自分の背中を見せながら選手を引っ張っていった。
「監督をやってくれないか」そう声がかかるようになった。
やってみたいという気持ちと不安の気持ち。
父との話合いはこれで二度目。父は言った。選手のときは自分だけでいい。監督になったら、選手のこと、親、学校の先生、社長、多くの人のことを考えなくてはならない。お前が色々な人の背中を見て育ってきたのと同じように、全員の人生を背負っていかなくてはならない。何より、ソフトボールだけ教えればいいのではない。人を育てなくてはならない。
自分の人生を父に話した。人というものを学び、表に見えない仕事もたくさんしてきた。「強くて、愛されるチームを作りたい。」挨拶、時間厳守、整理整頓、気配り、細かいルールを決めた。自己中心になってはならない。チームは自分のためにあるのではない。人だから気持ちの面でも大変だ。選手のいいところを引き出していきたい。
監督になって初めの年は、人数も少なく、全員がレギュラーで良かった。順調にリーグを上げた。次の年は選手が増え、レギュラー以外の人をどう生かすかが課題となった。自分の強さも、弱さをさらけ出してぶつかった。選手の個人カードを作り、この選手はどういう人間で、どういう選手なのかを考えた。選手と向き合った。
チームが日本の一部リーグに上がり、1996年アトランタオリンピックでソフトボールが種目になった。次の夢、目標は世界一だ。
アトランタオリンピックではコーチとして参加したが、監督を含め5人のコーチがいる中で、選手の足並みが揃わず残念な結果に終わった。船頭は一人でいい、その時に思った。
日立に戻って、日本一を目指し海外に目を向けた。チームで海外に足を運び、選手自身が受け身だったと気付き、自主的に変わっていった。そして国内三冠を達成した。
2000年のシドニーオリンピックでは全日本監督の話が来た。
「自分に全権任せてくれるならやる。」
全ての覚悟と責任を胸に監督に就任した。自分の選手たちならやってくれる。その自信があった。自分のチームから10人選出したときはさすがに叩かれた。しかし、世界選手権では銅メダルを獲得し、オリンピックへの切符を手にした。
オリンピックでは平等なセレクションをし、改めて自分のチームと同じように、やるべきことを伝えた。「強くて、愛されるチームを作りたい。チームは自分のためにあるのではない。」その思いを胸に選手達は徹底的に練習した。
シドニーオリンピックでは、決勝まで全勝だった。全て思い通りの試合ができた。決勝の試合中、選手交代を迷って固まってしまった。その後、打たれて慌てて交代を告げた。タイブレーカーでの8回裏、高く打ち上がったボールがグラブに収まった次の瞬間、その選手は雨で濡れた芝に足を取られて、転んだ。選手のグラブからこぼれ落ちたボール、サヨナラ負けで銀メダル。
泣き崩れる選手たち。エラーした選手はトイレからずっと出てこなかった。
「いつまで泣いているんだ、お前のエラーで負けたんだろ。」そう檄を飛ばした。
そのとき、選手たちは「違います、みんなのエラーです、チームを作るとき、監督は何て言ったんですか!」そう説教された。
そのときに思った。本当にいいチームを作った。
苦しいときでも、私は怒鳴られてきた。それで見返してやると気持ちを高めてきた。でも、その選手には違った。それからずっと、その選手はソフトボールを投げられなくなってしまった。
私の失敗は言葉だった。試合に負けたのは私のエラーだった。
2004年のアテネオリンピックも金メダルを目指して戦った。しかし、結果は一つ順位を落として銅メダルだった。もう一度、チャンスがあるのなら…
2008年の北京オリンピック。日本は悲願の金メダルを獲得した。しかし、自分はそこにはいなかった。解説席にいたのだ。試合の解説では感情が入りすぎて、うるさいとたくさんの苦情を受け取った。
でも、自分はあの子たち全員を知っている。私の夢がそこにあった。
エースの上野にはいつも言っていた。謙虚になりなさい。あなた一人のチームじゃない。あなたが投げた球を捕ってもらわないといけない。打たれた球も捕ってもらわないといけない。点も入れてもらわないといけない。そうしないと勝てない。
優勝して、金メダルを表彰されたとき、上野が私の方を向いてメダルを見せてくれた。本当におめでとう。すごく嬉しかった。でも、もう一つの気持ちもあった。グランドに立っているのが、どうして私じゃないのか。
そして、そのオリンピックを最後に、ソフトボールは正式競技から外されてしまった。今回、東京オリンピックが決まったとき、私もアルゼンチンのブエノスアイレスに行った。東京に決まったことはすごく嬉しかった。でも、ソフトボールは正式競技には戻れなかった。悔しくて、苦しくて、こんななら来なければ良かった。そう思った。
でも、私はやめるわけにはいかない。今、この目の前の子供達がオリンピックを目指しているから。夢を、希望をなくしてはならない。
私がソフトボールをやっていたとき、ソフトボールはオリンピックにはなかった。でも、バレーボールが私を支えてくれた。ユニチカのバレーボールチームは強かった。全日本チームは東洋の魔女と呼ばれ愛されていた。ソフトボールも、いつかこういう風になるんだっていう気持ちがずっとあった。
大人が背中を見せるべきだと思う。子供と向き合って。だから、NPOでソフトボールドリームを設立した。オリンピックにソフトボールを復活させるために。だって私はまだ、夢を叶えていないから。
大きな夢、目標に向かって。努力は裏切らない。
今だから言える。振り返ると苦しいことばかり、苦しくて苦しくて、何度も逃げようと思った。でも、この歳になって、振り返って思うことはやってきて良かったということ。
あなた達は壁に当たった時、乗り越えられる力を養えていますか。
「夢の実現 ~努力は裏切らない~」
本日の理学療法士学会におけるソフトボール元全日本代表監督、宇津木妙子さんの講演の冒頭である。
人生を振り返ったとき、「自分の生きた道は最高だった。」僕もそう言いたい。
全ての努力が報われるとは限らない。しかし、努力をせずには言えない言葉だ。
「夢の実現、努力は裏切らない。」
前向きな言葉で僕は好きだ。
そして、子供達に、夢を持つこと、努力することへの希望、大きな壁を乗り越える力を与えられる言葉だとも思う。
だからこそ、身近な大人が自分の生き方をもってそれを子供に提示しなくてはならない。
辛いとき、それは自分が戦っているからだと思うようにしている。そう子供達にも話してきた。自分が戦っている証拠なんだよと。
逃げればその苦しみから逃れることはできる。しかし、そのあとに何が残るのか。いずれ来る苦しみから、いつまでも逃げ続けるのか。
辛くて、苦しくて、苦しくて逃げ出したくなったとき、逃げ出さずに戦い、そのあとに訪れた感動を幸いにも知ることができた。
生徒の成長を感じ、卒業させたときのこと。
患者さんを退院させて、元気な姿を見せてくれたこと。
努力せずに得られたものではない。
冷めた人生でなく、熱い人生を。
大きな背中で、夢を語れるようになるために努力したい。
改めて強く思った。
以下は記憶にある限りの本日の講演の記録です。かなりの長文になりますが。
小学生時代、勉強が不出来で、授業参観に来た母親に恥ずかしいと言われた。子供心に強くあったのは、褒められたいという気持ち。勉強はできなかった。でも、スポーツはできた。
「人間は皆違う、一つでもいいから、自慢できる何かを持っていろ。何でもいい、一番をとってみろ。」顧問にそう言われて中学でソフトボールを始めた。このときも心にあったのは母に認められたい気持ち。
入部したら顧問も先輩も厳しい、理不尽なことも多かった。当時は体罰もあった、そして雑用ばかりの毎日。
3年になり、夢、目標ができた。県大会優勝。それができるまで休まず練習しよう。皆で決めて走り出した。それから一日も休まず積み重ねた練習の日々。それでも勝つことはできなかった。「あんなにやってきたのになんで。」それでますますソフトボールが好きになった。
高校生になると日本一を目指した。
毎日毎日、一生懸命に練習、雑用に励んだ。何をしても先輩に叱られ、反発してチームを離れたこともあった。戻ると自分の居場所はなかった。朝早くに自主練をし、あとは道具を並べ、草をむしり、雑用ばかりだった。
一ヶ月後の試合、スタメンに自分の名前があった。試合に出られたことより、ようやく皆と練習ができることが楽しみだった。しかし、自分がレギュラーに入るとそれで外される子がいた。それからはその子からの嫌がらせが続いた。
何度もやめようと思った、もういいでしょ、自分に何度も聞いた。しかし、自分はソフトボールの特待生だから、部活を辞めれば学校を辞めることになる。それでは母に迷惑がかかる。辞めることはできなかった。
だから、その子が許してくれるまで頑張ろうと思った。高校一年のその日から、60になる今まで、一日も練習は欠かしてはいない。それが私の願掛けになっている。やれるまでやろうと。
3年になり、どうせなら優勝しようと新たな夢を目指した。同級生は力を貸してくれなかったが、朝も夜も練習を続ける背中を、後輩が見ていてくれた。
そして、国体で準優勝。監督は初めて褒めてくれた。
試合後、同級生に呼び出され、今までごめんねと言われた。私は、「あなたのために練習したよ、ここまで強くなれたよ。」そう言えた。
そのとき、一人のためにチームがあるのではないことを知った。人に迷惑をかけると自分も周りも傷つけることになる。やるのも自分、諦めるのも自分、高校ではそういうことを学べた。
そのままユニチカへ入社した。社会人一年目、東日本ナンバーワンのピッチャーと共に企業スポーツの道へ。新天地へ向かう新幹線、監督から一言「お前はピッチャーの付録だからな」。
新幹線、指定席をとってもらったが、座らなかった。座れなかった。ずっとトイレで泣き続けた。せっかくプロになれるのに、付録ってのはあんまりじゃないか。それはすぐに「見返してやろう」強い気持ちになった。
15時まで仕事して、それから練習をした。プロと学生の差は歴然だった。今まで前に飛んでいたボールが飛ばない、捕れていたボールが捕れない。私は、ソフトボールがヘタクソだった。
5月に家族が来た。会いたかった。高校生との練習試合。その試合にも出られなかった。
話が違うじゃないか。そう監督に抗議をした父。娘さんはいい選手だ。すぐにでもレギュラーで使いたい。そう言っていたはずだ。今日、娘と帰ります。社会人でソフトボールをすることを、父は反対していたのだ。この中で、ようやく1ヶ月やってきた。3年で結果を出すからと説得した。
そのとき初めて勉強した。学生の頃は全て監督のいう通りにやってきた。監督が怖かったから。しかし、プロでは基本とプラスαができないと通用しない。受け身だった自分が変わった。それはソフトボールだけでなく、仕事に関しても同じだった。
プロとして過ごしたそれからの13年間。これだけ練習した選手はいない。仕事はそれ以上にやった。
郵便物の配達と、木造の寮のトイレのつまりを掃除するのが自分の仕事。過酷だった。私はソフトボールでこの会社に入った。なのに何でこんな仕事をしないといけないのか。仕事をすること、お金を稼ぐということ、企業スポーツをすること、その現実と大変さを学んだ。
そのあと仕事は変わり、寮を管理するようになった。寮生との生活、ルールや時間を守る、お互いを思いやる。どうしたらうまくいくのか、本気で向き合った。そこで人を学んだ。
満足のいくプレーができなくなり、13年間のプロソフトボールプレイヤー人生に幕をおろすことになった。
仕事はバリバリやっていた。しかし、上司からは、お前はソフトボールをするためにここに来た。仕事も辞めるのが筋ではないか。それが企業スポーツをやるということだ。
企業スポーツの厳しさを最後まで味わうこととなった。企業でスポーツをやるということは、勝たなくてはならない、そして愛されなくてはならない。負けがこめばいずれは廃部になる。愛されなければ声援は送られない。いいときはみんながやってくる、悪い時はみんなが離れていく。厳しい世界であった。
引退してしばらく、日立から監督が決まるまでの間、トレーニングコーチをやって欲しいと頼まれた。練習も、自分が積極的に走り、常に自分の背中を見せながら選手を引っ張っていった。
「監督をやってくれないか」そう声がかかるようになった。
やってみたいという気持ちと不安の気持ち。
父との話合いはこれで二度目。父は言った。選手のときは自分だけでいい。監督になったら、選手のこと、親、学校の先生、社長、多くの人のことを考えなくてはならない。お前が色々な人の背中を見て育ってきたのと同じように、全員の人生を背負っていかなくてはならない。何より、ソフトボールだけ教えればいいのではない。人を育てなくてはならない。
自分の人生を父に話した。人というものを学び、表に見えない仕事もたくさんしてきた。「強くて、愛されるチームを作りたい。」挨拶、時間厳守、整理整頓、気配り、細かいルールを決めた。自己中心になってはならない。チームは自分のためにあるのではない。人だから気持ちの面でも大変だ。選手のいいところを引き出していきたい。
監督になって初めの年は、人数も少なく、全員がレギュラーで良かった。順調にリーグを上げた。次の年は選手が増え、レギュラー以外の人をどう生かすかが課題となった。自分の強さも、弱さをさらけ出してぶつかった。選手の個人カードを作り、この選手はどういう人間で、どういう選手なのかを考えた。選手と向き合った。
チームが日本の一部リーグに上がり、1996年アトランタオリンピックでソフトボールが種目になった。次の夢、目標は世界一だ。
アトランタオリンピックではコーチとして参加したが、監督を含め5人のコーチがいる中で、選手の足並みが揃わず残念な結果に終わった。船頭は一人でいい、その時に思った。
日立に戻って、日本一を目指し海外に目を向けた。チームで海外に足を運び、選手自身が受け身だったと気付き、自主的に変わっていった。そして国内三冠を達成した。
2000年のシドニーオリンピックでは全日本監督の話が来た。
「自分に全権任せてくれるならやる。」
全ての覚悟と責任を胸に監督に就任した。自分の選手たちならやってくれる。その自信があった。自分のチームから10人選出したときはさすがに叩かれた。しかし、世界選手権では銅メダルを獲得し、オリンピックへの切符を手にした。
オリンピックでは平等なセレクションをし、改めて自分のチームと同じように、やるべきことを伝えた。「強くて、愛されるチームを作りたい。チームは自分のためにあるのではない。」その思いを胸に選手達は徹底的に練習した。
シドニーオリンピックでは、決勝まで全勝だった。全て思い通りの試合ができた。決勝の試合中、選手交代を迷って固まってしまった。その後、打たれて慌てて交代を告げた。タイブレーカーでの8回裏、高く打ち上がったボールがグラブに収まった次の瞬間、その選手は雨で濡れた芝に足を取られて、転んだ。選手のグラブからこぼれ落ちたボール、サヨナラ負けで銀メダル。
泣き崩れる選手たち。エラーした選手はトイレからずっと出てこなかった。
「いつまで泣いているんだ、お前のエラーで負けたんだろ。」そう檄を飛ばした。
そのとき、選手たちは「違います、みんなのエラーです、チームを作るとき、監督は何て言ったんですか!」そう説教された。
そのときに思った。本当にいいチームを作った。
苦しいときでも、私は怒鳴られてきた。それで見返してやると気持ちを高めてきた。でも、その選手には違った。それからずっと、その選手はソフトボールを投げられなくなってしまった。
私の失敗は言葉だった。試合に負けたのは私のエラーだった。
2004年のアテネオリンピックも金メダルを目指して戦った。しかし、結果は一つ順位を落として銅メダルだった。もう一度、チャンスがあるのなら…
2008年の北京オリンピック。日本は悲願の金メダルを獲得した。しかし、自分はそこにはいなかった。解説席にいたのだ。試合の解説では感情が入りすぎて、うるさいとたくさんの苦情を受け取った。
でも、自分はあの子たち全員を知っている。私の夢がそこにあった。
エースの上野にはいつも言っていた。謙虚になりなさい。あなた一人のチームじゃない。あなたが投げた球を捕ってもらわないといけない。打たれた球も捕ってもらわないといけない。点も入れてもらわないといけない。そうしないと勝てない。
優勝して、金メダルを表彰されたとき、上野が私の方を向いてメダルを見せてくれた。本当におめでとう。すごく嬉しかった。でも、もう一つの気持ちもあった。グランドに立っているのが、どうして私じゃないのか。
そして、そのオリンピックを最後に、ソフトボールは正式競技から外されてしまった。今回、東京オリンピックが決まったとき、私もアルゼンチンのブエノスアイレスに行った。東京に決まったことはすごく嬉しかった。でも、ソフトボールは正式競技には戻れなかった。悔しくて、苦しくて、こんななら来なければ良かった。そう思った。
でも、私はやめるわけにはいかない。今、この目の前の子供達がオリンピックを目指しているから。夢を、希望をなくしてはならない。
私がソフトボールをやっていたとき、ソフトボールはオリンピックにはなかった。でも、バレーボールが私を支えてくれた。ユニチカのバレーボールチームは強かった。全日本チームは東洋の魔女と呼ばれ愛されていた。ソフトボールも、いつかこういう風になるんだっていう気持ちがずっとあった。
大人が背中を見せるべきだと思う。子供と向き合って。だから、NPOでソフトボールドリームを設立した。オリンピックにソフトボールを復活させるために。だって私はまだ、夢を叶えていないから。
大きな夢、目標に向かって。努力は裏切らない。