久しぶりのブログ更新だ。なんか半年に1回みたいになってきている。
→もう少し、頻度を上げたいなぁ
つい最近、とあるところで、お勘定の際に、客が「おあいそ」という言葉を使うと
店側に対して「お愛想をせんかい」という意味になるという
何だか、悲しい色眼鏡で物事を見ているんではないか?
という出来事があった。
インターネット上に流れる情報も、
相変わらず誰かの受け売りなのかどうか知らないが
その系統の書き込みや、情報発信が多いように思う。
「お勘定」=「お愛想」の語源は、
雅な頃、京が日本の中心であった頃の発祥で
「勘定書を見ると客が愛想を尽かす」ところから
→多分、洒落な(当時のブラックジョークかな)の京文化がベースで
「勘定書」や「勘定する事」を、
「お愛想する」とかの表現になったところが発端であると
自分は理解している。
なので、客が「おあいそして」というと、単純に
「清算してください」の意味となり
それ以外の他意は出ないように理解している。
自分は、京都出身でもなければ
京都に特別縁が深い訳でもないので
京言葉を完全に理解しているわけではないが
京では
借用物を返却する際、
「それ返すとき、おあいそ入れといて」みたいな使い方で
お礼の金品を、借用物に忍ばせ返却したりする事で
感謝を表す事もあるそうだ。
「目には目を、歯には歯を」を、"やられたらやり返せ"的な誤解釈
→「相手の目を傷つけたらなら、自分の目をもって、
歯を傷つけたなら、己が歯をもって償いなさい」という戒めの言葉が本来の意味
「助長する」を、”手助けする”的な誤解釈
→本来は、「成長するためによかれと思ってした事が、逆効果となり殺してしまう」という意味
と同じ臭いがする。
しかし、言葉は変化していくもので
万人(大多数)が、その意味で使い出すと、本来の意味の効力を失うのが世の常。
「シャリ」「アガリ」を客が使うのが、寒いなどと曰ふ輩も多いが、
そういう輩に限って、よく使う言葉に見受けられる
「フォローする」、「ボケ」、「ツッコミ」、「オチ」、「寒い」なんかは
本来、業界用語のような・・・おお寒。
→「多すぎ」を「大杉」、はぁ?って思う。
敬語や丁寧語を使えとは言わないが・・・
「ネット文化」らしいが、精度の悪いIMEの誤変換が発端で
それでも文化と言えるのか?と思うが
まぁ、それもありなんだろう。
下名が使う「曰ふ」も本来は、尊敬語なのに、
今では、ちょっと相手を下に見たり
からかうような時に使う言葉に成り下がっている。
「輩」も、本来は、同類・同じ人という意味で、決して悪い表現ではない。
だけど今や、「曰ふ輩」や「輩」という表現をすると
文句を垂れる人とか、うっとぉしい人とか、
内心消えてくれと願う人みたいな使われ方をする。
ちょっと齧ったり、雑学を仕入れたら
「本来の意味はなぁ」とか、「判ってねぇんだよなぁ」いう輩も多いが
そんな事は、百も承知で、現在使われている意味に従って
その言葉を使っている輩も多いんではないかなって思う。
「『おあいそ』って言ってるよ。バカじゃね。」なんていう
関東人や、関東かぶれしている関西人の方が
よっぽど、通ぶってるバカのような気がする。
今、現代社会を支えている人たちは、90歳以下で
且つ、飲み屋に行く人って、年配でも80歳台後半が限界だと思う。
その言葉って、少なくとも数百年の歴史があるんじゃないのかな...
正しい意味って、何処が基準なの?
普段ノ生活ニヲイテ、本来アルベキ
送リガナヲ、カタカナニスベキナノカ?
自分にとって都合のいいとこだけ、正しい日本語っていうのも何だかなぁ...
今の小学校って、
「続き」は、「つずき」らしいし
「鼻血」は、「はなじ」らしい...
→「づ/ず」→「ず」に統一、「ぢ/じ」→「じ」に統一らしい
「こうあるべきだ」より、
「こんな事や、あんな事もありでいいんじゃない」の方が
生きてて楽しいんじゃないかな...
今時、「拙者」なんて言わんでしょ。
→現代の一般生活において使用すると、「ふざけてんのか!」ってならないか?
そういえば、性同一性障害で苦しみ夫婦になった家庭に、
体外受精で子供が出来たけど、
その親を、親として認めないというニュースが最近あったような...
法律で、男女の転換を認め、夫婦として成り立っているのに
親としては認めないなんて、なんだかなぁと思う。
認めないんだったら、最初から男女の転換そのものを否定すべきだし、
否定しないんだったら、ちゃんと認めてあげるべきだと思うけど...
「結論」
自分の知っている意味や範疇で、
相手がその言葉を使っているとは限らない。
使っている単語の揚げ足を取ったり
自分の知っている意味だけで、
その言葉を受け取る事に、意味は無い。
だけど、相手がどのような受け取り方をするのかには
注意が必要だし、相手が不愉快に感じる事を知ったのに
ごり押しするのは、話す側/聞く側のどちら側であっても悲しい事だと思う。
市民権を得た言葉には、そのまま、市民権を与えてあげてほしい。