昨日のブログに、植物や動物の命のきらきらとの出会いが楽しく、

 

そしてその滅びも見ていたい、というようなことを書いたと思う。

 

そして、でも無駄な滅びは見たくないということも書いたかな。

 

夜中にブログを書く時はもう酔っぱらっていて、

 

昼に書く時よりかなりオーパーでいい加減ではあるんだけど、

 

イノシシとの出会い(というより目撃)でそんなことを思ったのは確か。

 

そのイノシシを見たのは海辺の公園。

 

あ、その前に母校の桜を見に行ったか。

 

もうけっこう散ってるね。

 

でも好き。

 

小学校から中学校まで利用した校庭。

 

よく言うけどずいぶん小さく見える。

 

ここで野球してたんだ。

 

軟球でも打球が校舎には届かなかった。

 

だから子供にとっては十分な広さだったんだろう。

 

散った花びらがきれい。

 

 

 

水路にこんなにぎっしり。

 

これをたくさん集めて校舎の上からまき散らしたらきれいだろう。

 

二宮金次郎の像は撤去されてるところが多いらしいね。

 

ながら勉強はダメだし危ないということだったかな。

 

時計台は移動してここにある。

 

自分が5歳の頃に時計台の前で撮った写真もあるから、

 

かなり古いもの。

 

 

 

そして海辺の公園。

ハマダイコンの花が増えてた。

 

 

おじさんが1人歩いてて、あっちにレンジャクいるかも、と教えてくれた。

 

え、まだいるんですか、と言うと、いるいる長いこといるな、と。

 

そちらに行ってみた。

木の高いところにいた。

 

前にも写したし粘らずにここを離れた。

 

 

ハマダイコンや

 

ヤマザクラを見ながら歩いて行くと、

 

イノシシがいた。

檻の中。 

 

いたというより囚われていた。これは捕獲用の仕掛け檻。

 

イノシシが入っているのを初めて見た。

 

よく見たくて近づく。

 

なんてかわいい目。

 

しかし鼻のあたりが赤くなって血が滲んでいるところも。

 

この写真を写した頃から胸がざわざわしてきた。

 

自分はいったい何をしているんだ。

 

ああ、この写真はとてもブログに載せられない。

 

檻の戸を上に引き上げることによってイノシシを逃がすことができるだろう。

 

イノシシと見つめ合いながらその考えも頭をよぎった。

 

でもそれは違う。イノシシを捕らえるのは人間にとって必要なことだからな。

 

かわいそうとか思ってたら肉なんて食えない。

 

 

でもこのイノシシの命はあと幾日もないのは明らか。

 

鼻に血が滲んでいるのは、なんとか逃げだそうと檻の格子のすき間に鼻を激しく突っ込んだせいだろう。

 

この檻を管理している人がイノシシに気づけば、殺されて埋められるか、

 

適当な人がいれば捌かれて食べられる。

 

または、気づかれることなく餓えて死ぬ。

 

その死が訪れるまで、このイノシシは本能的に自分の死を感じ取って恐怖におののき続けるのだろう。

 

逃がしてやるよりは、今すぐに仕留めてやる方が正しいはず。

 

そんなことはできるはずもないが。

 

そのイノシシに自分はカメラを向けている。

 

なんてことや。

 

 

 

 

 

これはブログに書けないと思いながらその場をあとにした。

 

 

でもな。

 

もし自分が何日も食べていないような飢餓状態にあったら、

 

この仕掛けに囚われたイノシシを見つけて喜んでしとめることだろう。

 

散弾銃などで即死させて無駄なくいただく、それならいい、というようなことを

 

檻の中のイノシシを見ながら思っていたが、

 

それも自分の本能が今は表には現れていないから。

 

イノシシに同情があるのは、飢えていないから。

 

飢餓状態に自分があれば、イノシシの気持ちまでは考えないはず。

 

遠くの山のヤマザクラ。

 

河口付近のアオサギ。

 

 

セグロカモメかな。

 

 

シロハラの枝被り。

 

 

 

 

あれから何日か経って気持ちが変わった。

 

イノシシを写した自分はヘンだけど、それをブログに書かないのもおかしい。

 

ヘンな自分をちゃんと認めないと思って書いた載せた。

 

イノシシの気持ちを考えるのはやめよう。

 

食べられていたのならいいと思うけど、そんなことも思ってはだめだ。

 

やつらは数が多くて害獣なのだから。 それでいいのだ。

 

写真に収める自分がおかしいだけだ。


じじいが子どもみたいなことを書いて、読む人には申し訳ない。

 

おしまい。